【覚え書】一つの宗教を信仰している者が、他の宗教に対して取る態度

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 一つの宗教を信仰している者が、他の宗教に対して取る態度は、宗教の基本性格たる絶対性によって示されるであろう。宗教的絶対者は、対立の地平たる相対性を底へと超えることによって、対立を絶し、対立するもの同士をそこから包みささえるのである。
 宗教信仰がわれわれ人間の信仰であるかぎり、たといどのように絶対性を主張しようとも、相対性を脱することはできない。
 これを原理的に否定して、事故の信仰を絶対主義化しようとするなら、それはかえって自己を相対性の地平におとすことであり、そして同時に自己を魔的(デモーニッシュ)なものにすることである。自己を絶対主義化することは、自己と対立する他者を力によって葬ろうとすることになり、それは最も相対的な態度である。力は、他と相対立する地平においてのみ発動されるものだからである。
 人間が自己を魔的なありかたから解放し、有限性の自覚に立つなら、かならずや他の宗教信仰に対して成立の可能性を認め、それに対する理解を与えられるように努めなければならない。そこにおいて宗教と宗教との間の対話が可能となるのである。
 ところで、対話は読んで字のごとく、「対」立する者同士の間での話し合いである。それは対立を無くしてしまうことではない。対立が無くなれば、対話の必要もなくなる。ここにシンクレティズムとの相違が明らかとなる。
 宗教が混合してしまえば、対話もなくなる。対話が宗教的絶対性から示される態度であるとするなら、それは対立の地平たる相対性によって媒介されているのである。対立によって媒介された絶対性こそ、「対立を絶する」ものとしての真の絶対性である。
 自己の相対化を避けようとして逃げこむ「混合」は、まだ真の絶対性ではない。自己の信仰と他の信仰とが対立することを素直に認め、しかもその対立の地平を底から包みささえるような絶対者を仰ぐ態度こそ、シンクレティズムから区別される対話の態度である。宗教と宗教との間の対話は、対立を背後からささえる絶対者に見守られるとき、始めて可能となる。

 以上において、取るべき正しい態度として他宗教との対話を明らかにしたが、しかし、それで尽きるのではない。そもそも対話という概念自体が、対立する者同士の話し合いであるから、対話の主体は必ず自己自身の信仰的立場を確固として持っていなければならない。それは他宗教では「ない」という明確な立場でなければならない。
 従って、他宗教と対立することをもあえていとわないような立場でなければならない。それをもって他宗教との対話にはいるのである。今は対話にはいること自体が重大な意味をもつ段階であって、対話の結果どのような結論が出るかについて考えるかは次の段階である。
 さてそれならば、われわれはどのような宗教を自己の立場として選び取るべきであろうか。それは以上に述べられたような、真実の絶対性に即していると判断される宗教である。これは当然のことであろう。
 宗教信仰の基本性格が絶対性であるとするなら、信仰の決断はそのような絶対性に即している宗教へと向けられるのは当然である。そして、そのようにして選び取られた宗教は、自己の立場に確固として立つと同時に、自己を絶対主義化することなく、他宗教との対話にはいることを可能にしてくれるのである。
 私が選び取ったのは「神の痛み」の立場である。(拙著『神の痛みの神学』参照)。「痛み」における神は、自己と対立するものを自己の内に含む神である。痛みとは、このときの「包む愛」のもつ基本性格である。もし愛が、本来包まれ得るものを包むにすぎないなら、その愛は痛みの性格をもたなくてすむであろう。いわゆる「苦もなく」可能な愛である。また愛が本来包まれ得ないものと対立するにすぎず、その極それを自己の外へと排除するだけであるなら、その愛もまた痛みの性格をもたなくてすむであろう。前者は混合主義(シンクレティズム)へ傾き、後者は闘争へと傾く。
 

    −−北森嘉蔵「他宗教への態度」、『日本のキリスト教創文社、昭和四十一年。

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すんません。
ちょいといろいろと考えて言及したいところですが、コメンタリーする余裕がなく、入力してのみ沈没します。

非常勤講師というウンコのような存在ですが、何気に忙しいわけではあるわけヨ(苦笑

つうことで、すいましぇんw


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