「目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たち」でありたい
-
-
-
- -
-
-
歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪−−これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。
この犯罪に手を染めたのは少数です。公けの目にふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった苦難を嘗めなければならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞することができました。
シナゴーグの放火、略奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒瀆があったとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。
目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。
良心を麻痺させ、筆舌に尽くしがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。
一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団ではなく個人的なものであります。
人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人びとり自分がどう関わり合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。
今日の人口の大部分はあの当時子供だったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはない行為に対して自らの罪を告白することはできません。
ドイツ人であるというだけでの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
心に刻み(エアインネルン)つづけることがなぜかくも重要であるかを理解するために、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。
ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解(フェアゼーヌング)を求めております。
まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一時を理解せねばならぬのです。何百万人もの死を心に刻むことは世界のユダヤ人一人一人の内面の一部なのでありますが、これはあのような恐怖を人びとが忘れることはできない、というだけの理由からではありません。心に刻むというのはユダヤの信仰の本質だからでもあるのです。
忘れることを欲するならば追放は長びく
救いの秘密は心に刻むことにこそ
これはよく引用されるユダヤ人の金言でありますが、神への信仰とは歴史における神のみ業への信仰である、といおうとしているのでありましょう。
心に刻む(エアインネルン)というのは、歴史における神のみ業を目のあたりに経験することであります。これこそが救いの信仰の源であります。この経験こそ希望を生み、救いの信仰、断ち裂かれたものが再び一体となることへの信仰、和解への信仰を生みだすのであります。神のみ業の経験を忘れる者は信仰を失います。もしわれわれの側が、かつて起こったことを心に刻む代りに忘れ去ろうとするようなことがあるなら、これは単に非人道的だということにとどまりません。生き延びたユダヤ人たちの信仰を傷つけ、和解の芽を摘みとってしまうことになるでありましょう。
われわれ自身の内面に、智と情の祈念碑が必要であります。
−−『荒れ野の40年 ヴァイツゼッカー大統領演説全文』岩波書店、1986年、14−18頁。
-
-
-
- -
-
-
昨日は『「この趣味を切ったほうがいい」と知事が言ったから十二月十五日は良心の自殺記念日』(駄空無知)。
Io non dimentico mai questo giorno.
E, io non dimentico mai membri di riunione della riunione metropolitana che doveva difendere la tolleranza limitarono la libertà di espressione.
⇒ 画像付版 「目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たち」でありたい: Essais d'herméneutique