【研究ノート】無自覚的に自己を拘束している価値意識を相対化する精神態度と権力者や多数者の意見に安易に迎合しない「痩我慢の精神」

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 福沢の影響を強く受けた武藤山治は、「福沢先生は明治の半より、塾生が一身の生活安定なくして余りに政治の方面に狂奔するのを見てこれを匡正せんとして盛んに塾生に向って金儲けの必要を説かれました」と語り、さらに「思うに福沢先生の御意中は先ずかくて塾生をして身を実業界に投じせしめ、各自、産をなさしめたる上、政治のためにも大いに尽くさしめようとの御心であったに相違ありません」と述べている。そして、慶応義塾出身者だけでなく、「総ての学校出身者は物質文明の波にゆられ、学界に身を置く少数の人々を除き、大多数は一生を金儲けに没頭して世事を顧みない教育ある素町人」になる傾向があることを厳しく批判する(48)。「金儲け」を人生の目標にすることに福沢は反対であり、生活の安定を確保したうえで、政治に対する関心を高め、必要に応じて参加していくことを福沢も望んでいたと武藤は力説する。おそらく、武藤と同じく、雪嶺の主たる目的も日露戦争後から大正初期の青年たちの精神状況に対して警鐘を鳴らすことにあったと思われる。
 だが、福沢が、一方では「痩我慢」の精神を強調しながらも、他方では、事態に応じて妥協的に行動したことに対する批判も雪嶺にはあった。それは「福沢雪池翁」で「或る主義を立てゝ世と奮闘するよりも世の勢に乗つて行く方である」と述べていることからも明瞭であろう。「或る主義」を固定化することなく、「価値判断の相対性」(49)を重視したことが福沢の思考方法の特徴であった。だが、それは福沢のような強靱な精神の持ち主であれば、絶妙なバランス感覚のもとに、具体的な状況を考慮して自らの判断で価値を選択することができ、現状追随的な態度に陥らずにすむかもしれない。しかも、福沢は自己の信条を遵守するためには少数者になることもいとわない「痩我慢の精神」を有しており、したがって、付和雷同的に多数者の趨勢に身を委ねることもなく、また、政治権力に阿ることもなかったのである。だが、無自覚的に自己を拘束している価値意識を相対化する精神態度と権力者や多数者の意見に安易に迎合しない「痩我慢の精神」が欠如している場合、「或る主義」を固定化させない価値相対主義的な態度は単なる「世渡り上手」になりかねない。はたして、福沢の「痩我慢の精神」が、どれだけ青年層に浸透しているのだろうか。強靱な独立の精神によって裏付けられた福沢の「価値判断の相対性」を、明治末期の青年たちがどれだけ理解し、継承できるか、雪嶺は疑問に思っていたのであろう。多くの青年たちが「世渡り上手」に疑問をもたずに行動しているなかで、政治権力や財閥、さらには多数者の意見に迎合する「事大主義」が増長することに対する危機感を強めていったのであろう。自己の主義主張を簡単に放棄して、時代思潮に流されている青年たちを見て、雪例は福沢に対する評価を微妙に変化させたのではないだろうか。
    −−長妻三佐雄「三宅雪嶺福沢諭吉観」、『公共性のエートス世界思想社、2002年、26−27頁。

(48)武藤山治『私の身の上話』(武藤金太〔非売品〕、一九三四年)二三頁。
(49)丸山眞男福沢諭吉の哲学−−とくにその時事批判との関連−−」(『国家学会雑誌』一九四七年九月、松沢弘陽編『福沢諭吉の哲学』初秋、岩波文庫、二〇〇一年)六六頁以下。

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福澤諭吉(1835−1901)ほど理解されなかった大物はいないのかもしれません。他人のふんどしで相撲をとらないために、経済的独立(依存関係の廃棄)を主張したのが、「金儲け主義」と受け止められるし、事大主義を避けるための強靱な「価値相対性」の主張としての「痩我慢」が偏頗主義と受け止められるし……。

冷静に考えてみればわかるのですが、生活が他人の世話になっている段階では、最終的にその依存関係の枠内でしか発現はできません。子供の限界もここに存在します。

そして、論理における首尾一貫性が教条的なイデオロギーになってしまうからこそ、生きている現実の中で、妥当な価値判断をしていかなければなりません。絶妙なバランス感覚のもとに、具体的な状況を考慮して自らの判断で価値を選択していくことであり、これは「世渡り上手」の「価値相対主義的な態度」とは異なる態度であります。


物理的身体論を含む経済的独立と、精神的学問論を含む理性的独立は福沢のなかで一個の魂として凝縮されており、それが「独立自尊」という標語になってくる……。

だからこそ一番避けるべきは何かに対して「惑溺」してしまうこと。
原始仏教の言う「離れよ」という態度に近いのではないかと思います。

これをきちんと評価したのは丸山眞男先生(1914−1996)ぐらいでしょう。


和辻哲郎(1889−1960)なんかは福澤諭吉は「思想の紹介者」に過ぎないと評しましたが、丸山先生だけが「思想家」として評価しております。

ここには恐らく、戦後の世の中に独り立っていく自身の姿を、江戸−明治で先輩として同じように生き抜いた福沢の姿に重ね合わせたのだろうかと推察されます。


さて……。
昨夜は柚を買ってきましたので、冬至から少し立ちましたが、今日はゆず湯に浸かろうかと思います。




⇒ 画像付版 【研究ノート】無自覚的に自己を拘束している価値意識を相対化する精神態度と権力者や多数者の意見に安易に迎合しない「痩我慢の精神」: Essais d'herméneutique