Die Fahne hoch 旗を高く掲げよ
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自省の能とは、己が今ま何を為しつつある、何を言ひつつある何を考へつつあるかを自省するの能を言ふのである。
自省の一能の存否は、これ正に精神の健全なると否とを徴すべき証拠である。即ち日浄の事に徴しても、酒人が杯を挙げながら「大変に酔ふた」または「大酔ひである」などと明言する間は、さほどには酔ては居ない。少なくとも自省の能がいまだ萎滅しないのを証するもので、決して乱暴狼藉には至らぬのである。また精神病者が自身に「己れは少し変だな」などと言ふ中は、やはり酔漢と同じで、いまだ自省の能そ喪失しない、乃ち全然狂病者とはなつて居ない徴候である。
吾人はただこの自省の能があるので、およそ己れが為したる事の正か不正かを皆自知するのである。故に正ならば自ら誇りて心に愉快を感じ、不正ならば自ら悔恨するのである。この点からいへば、道徳とはいはず、法律とはいはず、およそ吾人の行為は、いまだ他人に知られざる前に吾人自らこれが判断を下して、これは道徳に反する、これは法律に背くと判断するのである。故に道徳は正不正の意象とこの自知の能とを基址として建立されたるものである。啻に主観的のみならず客観的においても、即ち吾人の独り極めでなく、世人の目にも正不正の別があつて、而してまたこの自省の一能があるために、正不正の判断が公論となることを得て、ここに以て道徳の根底が樹立するのである。
世にはこの自省の能の極めて微弱な人物が多々あるが、その人は恐くは世界不幸の極といはねばならぬ。
−−中江兆民「続一年有半」、井田進也校注『一年有半・続一年有半』岩波文庫、1995年、170−172頁
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明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いします。
今日から、自分の旗を高く掲げて参ります。
「自省の能とは、己が今ま何を為しつつある、何を言ひつつある何を考へつつあるかを自省するの能を言ふのである」とは中江兆民(1847−1901)の言。
本格的な挑戦と格闘の一年として参りますので、読者諸兄、今後ともどうぞ宜しくお願いします。
⇒ 画像付版 Die Fahne hoch 旗を高く掲げよ: Essais d'herméneutique