【覚え書】「死にゆく者の隣人 それが共同体を基礎づけるものである」





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死にゆく者の隣人
 それが共同体を基礎づけるものである。もし最初にして最後の出来事、ほかでもない各人において共有の権能を呈ししてしまうこの出来事(誕生と死)が共有されるのでなかったら、共同体などありえないだろう。共同体は、「きみと私と」から、親しくきみと呼ぶことを宙吊りにしてしまう非対照的な関係だけを頑迷に留保しようとするが、この執着はいかなる渇望を表しているのだろうか。この共同体とともに導入される超越の関係は、権威や一体性、内部性といったものを、共同体の非支配的な領域である外の要請に直面させることによって転位させてしまうが、それはなぜなのか。この共同体がその限界からひとり語り出すとすれば、それはひたすら死ぬことについての長話をくり返すことになるが、それによって共同体はいったい何を語ろうとしているのだろうか、「ひとりは孤りで死ぬのではない。そして、死にゆく者の隣人であることが人間にとってこれほどまでに必要なのは、どのようなささいなかたちではあれ、互いに役割を分かち合い、死にながらも現在に死ぬことの不可能性につきあたっている者を、禁止の中でも最も優しい禁止によって、その傾斜の上にひき止めるためである。今、死んではいけない、死ぬことに今などあってはならない。『いけない』という最後のことば、たちまち嘆願へと変わってしまう禁止のことば、口ごもる否定辞、いけない−−きみは死んでしまう」(『彼方への歩み』)。
 とはいえそれは、共同体が一種の不死性を保証するということを意味するのではない。あたかも、私は死なない、私の所属している共同体(祖国、世界、人類、あるいは家族)が存続する以上は、と素朴に語りうるかのように。むしろ、というよりほとんどそれは正反対である。ジャン=リュック・ナンシーは言う、「共同体は、不死のあるいは死を超えた上位の生の絆を、諸主体間に織りあげるものではない……。その成立からして共同体とは……、おそらく間違って成員と呼ばれている人々の死に向けて秩序づけられたものである」。事実「成員」とは、ある契約に従って、あるいは止むをえぬ必要にかられて、あるいはまた血縁や民族さらには人種のつながりを承認することによって結びつけられるような、充足した単位(個人)に送り返されるものである。
    −−モーリス・ブランショ西谷修訳)『語りえぬ共同体』ちくま学芸文庫、1997年。

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新年そうそうモーリス・ブランショ(Maurice Blanchot,1907−2003)など読むものではないと思うし、病み上がりというかそのような状況で読むものではないと思うけど、読み進めていかないと始まらない……。

ということで、読み始めておりますが、なかなか重厚ですね。

「死にゆく者の隣人 それが共同体を基礎づけるものである」。

まあ、現代世界は Memento mori とは対極の世の中ですけど、この一点を決して忘れてはいけないでしょう。





⇒ 画像付版 【覚え書】「死にゆく者の隣人 それが共同体を基礎づけるものである」: Essais d'herméneutique