宗教を信じる自由(信教の自由)の否定は、その人の人格の否定になる




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 人間の体の生存にとり、もっとも不可欠なものは衣食住である。同じく人間の精神にとり、もっとも大切なものは自由である。なかでも宗教は、精神の中核をなすものだけに、宗教を信じる自由(信教の自由)の否定は、その人の人格の否定になる。
    −−鈴木範久『信教自由の事件史 日本のキリスト教をめぐって』オリエンス宗教研究所、2010年、3頁。

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今日になってようやく、年末に師匠から頂いた著作にようやく目を通すことが出来ました。

が、読み始めると、まずはあっという間に250ページ近くを読み進めてしまい、はあ、なるほど、やはりここかッ!……って唸らざるを得ませんでした。

人間精神の自由ほど貴いものはありません。

そしてそれは人間のが生きていくうえで、もっとも不可欠なものであるけれども、不可欠であるがゆえに、それは空気や水のような性質をもっております。

空気や水のように日頃その恩恵を実感することはなかなかないのですが、なかなかないがゆえに、時として、その大切さが喪失され、時として踏みにじられてしまう……。

特に、寛容の精神とはほど遠い、同調化の圧力釜のような本朝の精神風土においては、いともたやすく踏みにじられてしまう……それがこれまでの歩みだったのかも知れません。

だからこそこの問題に関しては、意識的に向かい合っていくしかないんだろうな〜、そう思われて他なりません。

さて詳しい事件史は本書に譲りますが、あとがきの一節は少し抜き書きしておきましょう。



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 「はじめに」において、人間の精神にとりもっとも大事なものとして自由があり、そのひとつとして信教の自由があると述べた。本書では近代日本の信教の自由を、日本のキリスト教を中心とした事件によってたどってきた。
 そのなかで信教の自由を阻害するものとして、何よりも戦争のあることがわかった。これに対しては不断の平和への努力しかない。戦争には天皇制と国家神道とが密接に結合していた事実も忘れてはならない。ついで、宗教および宗派・教派意識が意外に大きな妨げの石となっていることもわかる。その解消には、宗教間、宗派間、教派間の対話と相互理解が必要となる。とりわけ日本において欠けているものとして、対話と相互理解を促すための宗教に関する教育、宗教を考える教育が大事である。
 なお日本のキリスト教に限るならば、本書で取り上げた事件は、概して日本のキリスト教でいうと、いわば「本流」からはずれた「傍流」の教派や人々が多く関わっている。しかし、書き終えてみて、「傍流」こそ信教の自由史のみならず日本のキリスト教史においても「本流」のような気がしてならない。
    −−鈴木範久、前掲書、241−242頁。

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この問題はキリスト教に限定されるものではないでしょう。
およそ本流と呼ばれる立場は、体制保管構造へと傾きやすいものです。

傍流“上等”の意識で、まあ、今年も奮戦して参ろうかと思います。

つうことで、三が日はおせちをたべる気力もなかった……風邪・頭痛・腹痛の三重苦w……ので、今日ぐらいは少し正月的な食べ物で新年の雰囲気を味わおうかと思います。

……って、傍流“上等”じゃw




⇒ 画像付版 宗教を信じる自由(信教の自由)の否定は、その人の人格の否定になる: Essais d'herméneutique