「キリスト者は、あらゆる形での冷戦を拒否すべきであり、そしてもはや正義と自由のうちに平和に役立つことのない戦争には関わりを持つべきではない」
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バルメン宣言を現実化したフランクフルト神学宣言は、バルメン第五項を集団殺戮兵器の問題に適用したものであり、そこから導き出された結論を示している、国家にとって正当化されうる緊急防衛という限界状況であっても、集団殺戮兵器による核戦争には適用されないのである。
なぜ適用できないのか。その答えは簡潔に、そしてまた明確に示されている。核による威嚇、集団殺戮兵器による威嚇は、全面的にして限界を持たない暴力であるからであり、どのようにしても正義と平和と自由に仕え、その実現を目指す限界ある暴力であることが出来ないからなのである。国家にとって正当化される緊急防衛という限界状況は、核戦争には適用されない。なぜなら、核による集団殺戮兵器は、「守ると称しているものを破壊する」(バルメン宣言第五項に対応するハイデルベクルテーゼ)ゆえに、決して正当な武器ではないからである。この立場に告白教会の神学者たちは立っていた。H・ゴルヴィッツァーがそうでえあるし、H・J・イヴァント、K・バルトもまたバルメン第五項の現実化のために労した人たちである。私はとりわけH・フォーゲルのことを考える。如何引用するフォーゲルの立場に、バルメン第五項の主要命題を読みとることは困難ではない。
フォーゲルは、バルメン第五項を明確に、部分的に全く字義通り用いて次のように言っている。
「正義と平和のために配慮し、悪を斥け善を求め、人間社会における人間の生命を確保するために仕える国家は、もしも国家が集団殺戮兵器を用いる時に、自らを滅ぼしてしまう」。
また別の表現で次のようにも言う。
「力の行使という手段が、人間に仕えるものでなく、正義と平和のうちに人間社会を確立するものでなく、国家の自己確保のためという緊急の利害関係に適用され、すべてを破壊する力において国家の自殺につながることになるならば、その手段は否定される」。バルメン宣言第五項は、「権力の行使は、人間に仕え、人間社会を守る限りにおいて、またその時の責任あるものとなる。人間自身の人間性を否定する権力手段の使用において、その正当な使用は人間に仕えるものとは考えられない」。
したがって、バルメン第五項からキリスト者にとって次のようなことが語られる。
「キリスト者は、あらゆる形での冷戦を拒否すべきであり、そしてもはや正義と自由のうちに平和に役立つことのない戦争には関わりを持つべきではない」。
バルメン第五項における国家の定義の記述は、徹底してルターの「二王国説」と区別される要素が考えられ、フォーゲルは(いまだ救われぬこの世にあって……権力の威嚇をなしつつ……)という理解に立ちながら、ルター派の友人たちに呼びかけている。
「まさに、社会を守るために悪の侵入に対して国家権力が力を行使するという、たびたび引用されるルターの理解にも言われることは、集団殺戮兵器は人間への奉仕としてはもはや考えられない。なぜならそれは、幼児までもふくめて全集団を抹殺してしまうからである」。
命題
イエス・キリストにおいて生起した解放と神の世への和解は、われわれの世界のあらゆる領域にわたる十字架の主の支配を含む(バルメン第一−第二項)。そこより国家に与えられた課題は、すでに和解がなされたが、しかしまだ救われていない世にあって、人間の理性の規準に従って、正義と平和と自由のために配慮することである−−緊急の場合と限界状況においては権力の威嚇と行使も正当化される(バルメン第五項)。
さらにまた、正当とみなされる国家の権力による威嚇と行使に集団殺戮兵器を導入することは、バルメン第五項からして、キリスト教的にゆるされない。
なぜなら、国家にとって正当な緊急防衛という限界状況(バルメン第五項)を、核戦争にあてはめることは出来ないからである。核兵器による威嚇というおびやかしは、全面的な戦争を意味するし、核兵器による集団殺戮手段は、核戦争がそれによって守ろうとしているものを破壊する限り、決して正義の武器ではありえない。
ベルトールト・クラッパート(寺園喜基訳)「バルメン宣言とヒトラーの権力掌握」、寺園喜基編訳『和解と希望 告白教会の伝統と現在における神学』新教出版社、1993年、199−201頁。
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戦争と宗教の関係にはいろいろと問題があるし、お互いにお互いがその推進力を加速させる起爆剤となったことも確かです。特にキリスト教の場合はそのことが多々ありました。
だからこそ、その問題に関してどのように見ていくのか、どのように捉えていくのか……ということが常に課題であり、そのことは現代の文脈でいうならば、国家のもつ権力というものをどのように捉ええていくのか……という課題に他なりません。
特に、ヒトラー(Adolf Hitler,1889−1945)による権力掌握の過程で果敢に抵抗した告白教会の伝統を持つドイツにおいてもそのことは例外ではなく、戦後においては、ヒトラーとの戦いから次は冷戦をどのようにとらえていくのかということが問題になってきます。
良き市民でありながら、権力を相対化させていく眼差しというものでしょうか。
世界宗教とはすべからくこの世のものとしての国家をかならず超越してしまいます。まあ、だから国民国家というものは、宗教を管理したがるものなんです。
宗教の方においても国家に迎合するのか・それとも国家を廃棄するのか……という二者択一が簡単に想像されそうですが、現実には、そう単純なものでもありません。
もっともその両方の極端に走るパターンというのも多いですけどね。
ただしその両方の極端に走った場合、信仰の受益者が一番辛い目をみるというのがお約束のパターンというわけですが、まあ、この傾向が顕著に見られるのは本朝の精神風土でしょう。
さて、20世紀キリスト教世界の特徴とは何かといえば、そのへんを極めて丁寧にやろうと取り組もうとしているところ。
バルメン宣言は、ヒトラー主義に対する抵抗のマニフェストとして編まれたものですが、戦後これはフランクフルト神学宣言へと展開してまいります。
ひるがえって唯一の被爆国である本朝の宗教風土はいかがでしょうか。
一部の例外や一部の個人を除いて、それを神学的・宗学的に基礎づけることに成功しているとは……なかなかいえませんね。
⇒ 画像付版 「キリスト者は、あらゆる形での冷戦を拒否すべきであり、そしてもはや正義と自由のうちに平和に役立つことのない戦争には関わりを持つべきではない」: Essais d'herméneutique