大いなる正午とは、人間が自分の軌道の真ん中にあって、動物と超人との中間に立ち、自分が歩み行くべき夕暮れへの道を自分の最高の希望として祝う時である。



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 ツァラトゥストラは、これらの言葉を述べ終わると、沈黙したが、その有り様は、自分の最後の言葉を述べ終わっていない者のようであった。長いあいだ、彼は杖を自分の手に持って、どちらとも決しかねるふうに、釣り合わせていた。ついに彼は次のように語ったが、−−彼の声は変化していた。
 今やわたしはひとりで行く、わたしの弟子たちよ! きみたちもまた、今や立ち去って、ひとりで行け! それがわたしの欲するところだ。
 まことに、わたしはきみたちに勧める。わたしから去り、ツァラトゥストラに抵抗せよ! そして、さらによいことには、彼を恥じよ! 彼はきみたちを欺いたかもしれない。
 認識の人は、自分の的たちを愛しうるばかりでなく、また自分の友たちを憎むうるのでなくてはならない。いつまでも単なる弟子にとどまるのは、師によく報いるゆえんではない。してきみたちは、まぜわたしの月桂冠をむしり取ろうとしないのか?
 きみたちはわたしを崇拝する。だが、きみたちの崇拝がいつの日にかくつがえったとしたら、どうだろう? 〔倒れかかってくる〕立像に打ち砕かれないよう、用心せよ!
 きみたちは、ツァラトゥストラを信じる、と言うのか? だが、およそ信者なるものになんのことがあろう!
 きみたちは、まだみずからを捜し求めないうちに、わたしを見いだした。およそ信者なるものは、そういうやり方をするものだ。それゆえ、およそ信仰なるものは、たいそうつまらぬものなのだ。
 いまや、わたしはきみたちに、わたしを失い、みずからを見いだせ、と命じる。そして、きみたちがみなわたしを否認したときに初めて、わたしはきみたちのもとへ帰って来ようと思う。
 まことに、わたしの兄弟たちよ、そのときわたしは、違った目で、自分の失った者たちを捜し求めるであろう。そのときわたしは、或る違った愛で、きみたちを愛するであろう。
 そして、さらにいつの日か、きみたちはわたしの友となり、同じ希望の子となっているであろう。そのとき、わたしは三たびきみたちのもとにあって、きみたちと共に大いなる正午を祝おうと思う。
 ところで、大いなる正午とは、人間が自分の軌道の真ん中にあって、動物と超人との中間に立ち、自分が歩み行くべき夕暮れへの道を自分の最高の希望として祝う時である。というのは、それは或る新しい朝への道だからだ。
 そのとき、没落して行く者は、自分がかなたへ渡ってゆく者であるというので、みずから自分を祝福するであろう。そして、彼の認識の太陽は、彼にとって真南に位置しているであろう。
 「すべての神々は死んだ。 いまやわれわれは、超人が生きんことを欲する」−−これが、いつの日か大いなる正午において、われわれの最後の意志であらんことを! −−

 このようにツァラトゥストラは語った。
    −−ニーチェ(吉沢伝三郎訳)『ツァラトゥストラ 上 ニーチェ全集 9』筑摩書房、1993年140−142頁。

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年頭からこれまたニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844−1900)を再読することを課題にしているのですが、ニーチェの言葉というものは、ゆっくり・じっくりと味わってこそナンボというものが多いですね。

ツァラトゥストラ』にしても10代で読むだけは読んでおりますし、仕事や学習の関係上、20代で何度も紐解いた一冊ですが、「読まなければいけない」とか何らかの必要上で手に取るというのと違ったた動機、例えば、「まあ、じっくり読んでみようか」とめくってみると全く違うものですね。

マア、このことはニーチェ独りに限られたことではありませんが。

その意味で、誤読と誤解の総体というものは、なんらかの別の目的が対象より大きくなったときに発動するものかもしれません。

悪しきニーチェ「主義」もこりごりですが、読まず嫌悪というのもこりごりです。

引き返すことのできない歩みのなかで、何を認識し、何をなしていくべきか。
そんなことを考えさせられております。
ただしかし、このことは、認識以降において目新しい実践をせよということと同一視されても文脈が異なってしまうような感があるのも事実です。たとえ、そこで導き出された決断というものが、認識以前・行為以前と同じ実践であったとしても、違うものたらしめていくことが可能なはず。

違うものを夢想することを止め、「みずからを見出す」探求に倦まないことこそ……まあこれはチンケな自分探しゲームとは違いますよ、念のため……「自分が歩み行くべき夕暮れへの道」であり、祝福の時なのかもしれません。

マア、これがなかなかできないわけなのでしょうけどね。

さあ、続きをもう少し読みましょうか。






⇒ 画像付版 大いなる正午とは、人間が自分の軌道の真ん中にあって、動物と超人との中間に立ち、自分が歩み行くべき夕暮れへの道を自分の最高の希望として祝う時である。: Essais d'herméneutique