最初の叡智的行為とは、和平(La paix)である





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レヴィナス 私は今日の哲学における形而上学関係者からの批判はまったく意に介していません。けれども「形而上学」という言葉は、それでもやはり、伝統的にいささか意味を積み込み過ぎであるようです。もし私の聞き方が間違っていなければ、あなたは「形而上学」という言葉を「根源的省察」という意味で用いられたようです。おそらくは始原的であると同時に究極的な省察という意味を込められたのでしょう。もし、そうであれば、私の回答はこうなるでしょう。人間性の先決的省察とは、まさに聖性という理想によって動機づけられた精神のうちにあり、意味あることが現れ、意味し、重要性を有するのは、なによりもまず、私と他の人間との関係のうちにおいてである、と。もしこういう別の言い方をしてもよろければ(ママ)、行為とは、最初の叡智的行為とは、和平(La paix)である、と私は答えるでしょう。和平、その言葉によって、私が言おうとしているのは、私が他の人間に懇願している、ということです。和平は私の思考の仕方に先行します。本来の意味における認識することへの欲望に先行します。対象的な主題化に先行します。和平があるとき、人と人のあいだに平和な関係があるとき、そこには理があります……
    −−エマニュエル・レヴィナス/フランソワ・ポワリエ(内田樹訳)「レヴィナスとの対話」、『暴力と聖性 −−レヴィナスは語る』国文社、1991年、137−138頁。

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月曜は、短大の「哲学」の最終講義でした。

まずは15回の授業への出席、皆様ありがとうございました。

はっきり言ってウンコのような授業で至極申し訳なかったと忸怩たるを得ないのですが、それでも皆様が生きていく上で、哲学していくことの重要さは共有できたのではないかと思います。

昨日は、「哲学に答えはない」ということのイエスでありノーである部分を少し言及しましたが、人間が考えるということの、まあ、「根源的省察」というものは、人間が人間として生きていく上では必要不可欠なんです。

授業は昨日で終わりましたが、ひとりひとりの受講生が、若き賢者として生活世界のなかで、負けずに人間として生き抜いて欲しい……そう節に願う次第です。

そのことによって「最初の叡智的行為」としての「和平(La paix)」はこの世に実現するはずだと思います。

……って皆様だけに押しつけるものでもありませんので、私自身も私らしく、挑戦と応戦の日々を送っていこうと、襟を正した次第です。

しかぁ〜し!

さすがに授業やって、市井の職場へ行って仕事して、さきほどまで自宅で少し仕事をしていると疲れ果てましたので、今日はこれからすこしゆっくりと呑ませて戴きます。

しかぁ〜し!

酒の肴が、イチゴしかないという件。

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⇒ 画像付版 最初の叡智的行為とは、和平(La paix)である: Essais d'herméneutique




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