まっとうなバランス感覚があれば、迷信の付け入る余地はない。

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 まっとうなバランス感覚があれば、迷信の付け入る余地はない。「わしの乗った船に限って難破などせぬ」と言い、直ぐ慌てて木に触れる人がいる。何故そんなことをするのだろうか。次の文を目の前にするからだ。「亡くなった人にX氏がいる。驚くべき偶然で、氏は事故の数日前に、自分は難破の経験がないと語っていた。次の航海で、この発言が悲劇的に否定されるなどと、夢にも思っていなかった」
木に触れた人はどこかでこんな記事を何度も読んだのを思い出したのだ。そう、この記事なら、もしかすると読んだかもしれない。だが次の文は絶対に読んだことがないであろう。「亡くなった人にX氏がいる。驚くべき偶然で、氏は事故の数日前に、自分は難破の経験がないと、語っていなかった」 この文なら、何回書かれても真実そのものを報じたものであったはずだ。バランス感覚を働かせば、出来事の一方のみが記事になれば、それが不当に過大視されてると気付くはずである。
 運命の女神はわざわざドラマチックなことをしようとはしない、というのが真実である。仮に、諸君や私が生殺与奪の力を手にしたとしたら、人目に立つような派手なことをしようと試みるだろう。例えば、なにげなく塩をこぼした人が次の週に死海で溺死するとか、五月に結婚したカップルが次の五月に同時に死ぬとか。しかし運命の女神は、人間が考え出すような小賢しいことを考え出すような火間はない。仕事を堅実に散文的にこなしてゆくのみであり、通常の確立の法則によって時々あっと驚かせるロマンチックなことをなすのである。迷信がはやるのは、偶然起きたドラマのみが報じられるからに過ぎない。
 しかし、禍を回避するまじないもある一方で、積極的に幸福を招くまじないもある。私はこの種のまじないは信じている。と言っても、蹄鉄を家の中に吊っておけば幸運が舞い込むと信じているのではない。人がそれを信じるのなら、蹄鉄を吊ればたぶん運が開けるだろうというだけである。もし自分が運命に恵まれると信じれば、にこにこして仕事に励むだろうし、災害があっても微笑して我慢し、微笑を浮かべて再スタートを切るだろう。そうすれば、自然に幸福になれるというものだ。
(Superstition)
    −−ミルン(行方昭夫訳)「迷信」、『たいした問題じゃないが −−イギリス・コラム傑作選−−』岩波文庫、2009年、187−188頁。

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3日は節分でした。

別になにかにあやろうとか思いませんし、それに杞憂されるのも趣味ではありませんので、宅にて神事を執り行うわけでもありませんが、息子殿に“季節感”を体で覚えさせるために……真冬でも西瓜が売っているかと思えば、真夏でもみずみずしい大根を手にすることのできるご時世ですから……、こーした「季節モノ」“イベント”を細君は大事にしているようですので、その日は豆を買い求め、恵方巻なんぞも用意していたようですが・・・

こちらはそれを捌くのが市井の商売ですから、こーゆう日に、優雅に家人と季節のイベントを楽しむことはできないという寸法です。

まあ、許しておくんなせえ。

おかげさまで、今年は売れ残ることもなく、豆も恵方巻もヒイラギも完売御礼!

ちょいと飲み屋にひとりでよって先ほど帰ってきた次第です。

まあ、何かによって禍を回避するでもなく、その逆に幸福を招くことに右往左往するでもなく、日々、ほほえみを浮かべて再スタートをきる一日一日でありたいものです。

「まっとうなバランス感覚があれば、迷信の付け入る余地はない」わけです。

まあ、そのためには酒が必要不可欠ということで、今日はひさしぶりに純米吟醸酒純米吟醸 備前雄町 瀧自慢」(瀧自慢酒造(株)・三重県)にて最後の〆をして沈没しようかと思います。

お米のゆたかな優しい味わいがなんともいえません。

先月末、大阪へ出張した際、いただいたものですが……、はい、ありがとうございましたw










⇒ 画像付版 まっとうなバランス感覚があれば、迷信の付け入る余地はない。: Essais d'herméneutique