高貴の反対は「卑小」「狭量」「小市民的」とか、あるいは、生活の小さな目標だけしか念頭になく、それも自分自身か、自分の身近な周囲だけしか考えないことである






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 高貴の反対は「不良」とか「悪性」とかではない、もちろん、これらは決して高貴なものではないが。高貴の反対は「卑小」「狭量」「小市民的」とか、あるいは、生活の小さな目標だけしか念頭になく、それも自分自身か、自分の身近な周囲だけしか考えないことである。高貴というのは、ひろい眼界、すべての人に対する宏量、自分自身についての無頓着、他人に対する配慮などである。高貴であるためには、もの怖じしないこと、どんな事情のもとでもこの世の何かに威圧されないことがぜひとも必要である。もっとも、そういう性質は、真の高貴と、にせの高貴とに共通したものではあるが(ただし真の高貴はどこか愛すべき形をそなえ、真に尊敬すべきものに対しては、心からの敬意を払うが、にせの高貴にはそうしたものが欠けている)。なお、真の高貴には一種の高潔さもなくてはならない。どの方面でももはや動物でないということ、単なる肉体的存在にもはや決して従わないこと、このことが本来われわれの使命であって、それをばわれわれはまずこの世で学び、さらにのちの生活でそれを完成すべきものである。人間がただ一代で、そうしたまったく堅固な信念に達することは、経験上まれであるが、いったんその段階に進めば、高貴な魂にとって、卑俗なものは本性に反するものとなり、したがってまた肉体的にも厭わしいものに感じられてくる。しかし、魂の成長が低い段階にとどまる間は、卑俗なものを精神的にはすでに克服していても、依然としてその魅力を感じ、それに誘惑されるのである。
    −−ヒルティ(草間平作・大和邦太郎訳)『幸福論(第二部)』岩波文庫、1962年、191−192頁。

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倫理学の学習とはアリストテレス(Aristotle,384 BC−322 BC)がその初手を論じ、和辻哲郎(1889−1960)が大著『倫理学』で論じたように、「身近なものへ注目」することから始まります。

しかしながら「身近なものへ注目」することで盲目になることとは全く無関係でなくてはなりません。

正解と切り離され、自分の世界で惑溺するようなあり方というのは決して「高貴なもの」ではないのかもしれません。


ちなみに日本を代表する倫理学者・和辻哲郎博士の誕生日は3月1日。




⇒ ココログ版 高貴の反対は「卑小」「狭量」「小市民的」とか、あるいは、生活の小さな目標だけしか念頭になく、それも自分自身か、自分の身近な周囲だけしか考えないことである: Essais d'herméneutique







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