必要なのは、それがそれとして機能するように注文・監視していくことなのではないだろうか。





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 ところでまったく強制だけによる権力といったものはない。どんなときでも、同意というものがたいせつである。交差点で警官が白い棒を挙げたとする。この場合、車の列を止めたのは、なんだろうか。あきらかに、警官の物理的な力ではない。それならばある必然性、つまり交通は規制されなくてはならないという必然性、それいついてのなにか漠然とした判断からなのだろうか。行為者がみな哲学者なら、そんなことにもなろう。けれどもこんな問題を反省・熟慮したあげく、警官の制止に従ったという人たちが、いったいどのくらいいるだろうか。そうではなくて、かれらは力はいちばんないけれども、いちばん権威をもった者に本能的に従った。それだけのことである。
 権力のイメージというのは、みんなこんなものだと言ってよい。人はときとして、専制君主のことを考える。そしてかれは散弾で人民からの畏敬を保ち、あるいは銃で嚇して、人びとを仕事から引裂いているかのように想像する。これは結局、考えかたの都合であって、さらに言うと、精神の簡素化にすぎない。実際、散弾なんて、そう対して役に立つものではない。これが本当に働くような場合は、たまにしかない。しかもこれで大衆に仕事が強制できるかというと、それも疑わしい。なるほどたくさんの人間は、これで殺すことができる。が、計算にとって必要なのは、散弾そのものではない。むしろ散弾についての理念である。もっと言うと、人を支配するさい、散弾を利用するところの理念である。これ以上、言うことはないだろう。わたくしは、すべて権力の問題では、理念が力に勝ると考えたい。そうでないと、権力は散弾を繰る人たちのものとなってしまう。つまりかれらに命令する士官には属さない。いわんやこれらの士官に命令する人、さらにはいわゆる素手の人には属さないことになるからだ。
    −−ロジェ・カイヨワ(内藤莞爾訳)『聖なるものの社会学ちくま学芸文庫、2000年、80−81頁。

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権力が権力として機能していないorz
メディアがメディアとして機能してないorz

注文は必要だけど、足をひっぱるのはよそう。

必要なのは、それがそれとして機能するように注文・監視していくことなのではないだろうか。









⇒ ココログ版 必要なのは、それがそれとして機能するように注文・監視していくことなのではないだろうか。: Essais d'herméneutique







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