自分と他の人びととの間に、忠実な協力の心を作ること








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 ところで、ルールを守るには、相手があって可能なことであるから、好むと好まざるとにかかわらず相手の存在を認めねばならない。ところが、もともと前頭連合野は、相手を否定しようとしているのである。その前頭連合野に、どういいきかせて相手を認めさせたらよいだろうか。ここに、より崇高な「人類の知恵」が要請されるのである。
 幸いにも、私たちの先人はこの要請になんらかの形でこたえてきたし、現在この地球上に生をうけている私たち人間は、あるいは、集団の合意にもとづき、あるいは個人の納得づくで、それぞれ最善の知恵をしぼりだし、それにのっとって行動しているはずである。私は、東洋精神の土壌で培われ開花した岡潔先生の知恵と、西洋思潮の沃土で育てられ結実したトインビー博士の知恵をきいてみたい。
 岡潔先生のお考えはこうである−−私たち日本民族には、人の喜びを自分の喜びとして、人の悲しみを自分の悲しみとして体得することができる心情があるという。芭門の物のあわれを感ずる心、思いやりの心、情(情緒)であって、仏教でいう、自他の対立のない非自非他の心境(真我、大我)に徹しさせる無差別智である。この智慧が、私たち日本民族をかくも栄えさせているのだといわれる。
 トインビー博士のご意見はこうである−−人間にとって、物質的な面よりも重要なのは、自分と他の人びととの間に、忠実な協力の心を作ることである。もともと、これは人間の天性にとって非常にむつかしいことである。個人の生涯であれ、社会の歴史であれ、人間の悲劇はすべて、この面の倫理的努力を人間がおこたったことから出発している。そすて、この協力の心を教え、指導するのは宗教であるといわれる。ちなみに、英語のreligionということばの語源は、結びつけるという意味である。
 岡潔先生とトインビー博士の違いは、培われた精神的風土の違いによるのであって、願う心は同じである。私は、岡潔先生やトインビー博士の願う心を受けいれるのに決してやぶさかではないどころか、私の心はそれにいたく共鳴している。
 しかし、そうはいっても、あの顔つきはいやだ、あの皮膚の色は好かない、あの主義主張は気にくわないといわれてしまえばそれまでである。そうなると、私たちは、もっと掘りさげて、文句なく理屈ぬきで、相手を認めることができる足場を探しださねばならない。幸いにも、その足場を、私は、脳の仕組みのなかに求めることができたと信じている。
 それは、いのちの座である脳幹・脊髄系である。脳幹・脊髄系は、人種の違い、民族の違い、ことばの違い、イデオロギーの違い、風習の違い、皮膚の色の違いなど、精神的、肉体的のすべての違いを超越して、ただ黙々と私たちの身体の健康を保証してくれているいのちの座である。脳幹・脊髄系には、全く色がついていない。
 私たちは、前頭連合野の働きによって、自分のいのちに限りない執着をもっている。そんなに執着の心があるのなら、全く個性のない、共通の構造と働きをもっている他人の脳幹・脊髄系なら、無条件に認めることができ、そこに営まれているいのちだけは、理屈ぬきで愛惜することができるのではなかろうか。
    時実利彦『人間であること』岩波新書、1970年、204−207頁。

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少し古い本だし、根拠の置き方には少し疑問も出てきますし、存在論として民族への還元論には抜きがたい抵抗感がありますが、大筋では、生理学者・時実利彦先生(1909−1973)の示された展望は簡単には否定できない、否、大いに首肯せざるを得ないものではないかと思います。

相対的な差別相という現実事象の存在・嗜好の違いというものは払拭できませんし、否定できない事実です。

しかし、それは何ら根拠にならないということ。

差異は差異として抜きがたく存在します。

しかし差異が存在すると同じぐらい共通した側面もあるでしょう。

それが人種の違い、民族の違い、ことばの違い、イデオロギーの違い、風習の違い、皮膚の色の違いなど、精神的、肉体的のすべての違いを超越した「いのちの座」という現実。
氏は脳幹に限定しておりますが、「人間」として生きている現象そのものもその当体ではないのかと、素人ながらには思ってしまうわけですが、いずれにしても、この点からもう一度、ひとと向かい合うということを点検していきたいなと思う次第です。

しかし秀逸なのは冒頭の一文ですねえ(苦笑

「ルールを守るには、相手があって可能なことであるから、好むと好まざるとにかかわらず相手の存在を認めねばならない」。






⇒ ココログ版 自分と他の人びととの間に、忠実な協力の心を作ること: Essais d'herméneutique



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