「わざわざ考えなくてもよい」ものを、「わざわざ考える」わけ
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物のまわりをかぎまわって、物の目じるしをあつめ、物を分類してきたこれまでの哲学は、カントがあらわれたので、研究を中止してしまった。カントは人間の心そのものをしらべるように研究をひきもどして、人間の心にあらわれてくるものを吟味した。カントが自分の哲学をコペルニクスのやり方と比べたのは、もっともなことである。地球を静止したものとして、太陽が地球のまわりを回転していると考えていたコペルニクス前の時代には、天体の運行についての計算がどうもうまく合わなかった。そのときコペルニクスが太陽を静止したものとして、地球が太陽のまわりを回転すると仮定した。すると見よ! すべての計算がきわめてうまく合うではないか? これと同じくカント以前は、「太陽」である理性が、現象界つまり「地球」のまわりを回転してそれを照らしていると考えられていた。ところがカントは「太陽」つまり理性を静止したものとして、「地球」つまり現象界がそのまわりを回転して、それに照らされていると仮定した。すると現象界つまり「地球」は、理性つまり「太陽」の光のおよぶ範囲にはいったときだけ照らされるのである。
−−ハイネ(伊東勉訳)『ドイツ古典哲学の本質』岩波文庫、1973年、174−175頁。
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短大での哲学の第三講義が無事終了。
いよいよ本格的な「哲学する」段階へ突入したwというところでしょうか。
哲学も宗教も根本原理の探求という意味では同じ側面がありますが、哲学で特徴的なことは、どこまでも「言語」を使って、省察をすすめていくというところでしょうか。逆から照射すれば、哲学には祈りの言葉と行為はありませんが、宗教には祈りの言葉と行為は存在するというわけですが、いずれにしても哲学は「言語」をつかって、「言語道断」という境地をさけながら、アプローチしていく学問です。
ですから、初手の段階で、「鉛筆とは何か」とか「林檎とは何か」ということを「言葉」を使って説明させる議論を授業でやるわけですが、
やはり……(苦笑
履修者の皆様、「鳩が豆鉄砲くらった」ようになっておりましたw
そりゃあ、そうなんです。
日常生活の中では、ラベルとして名前と意味以上のことを探求することはありませんし、それですむというのが日常生活です。
だから、「当たり前のこと」は「わざわざ考えなくてもよい」という寸法です。
しかし、「それ、どうよッ」ってツッコミを入れるのが哲学なんですね。
だからこそ「わざわざ考えなくてもよい」ものを、「わざわざ考える」わけです。
そのことによって実は、これまで覆いを被されて見えなかった・見過ごしていたことというものがハッキリとして、まさに、無知の知の自覚から真の智への愛が芽生えるという筋道です。
たしかに考えなくても、生きていくことは可能です。
そして考えたことを他者とすりあわせて生きていくことも可能です。
しかし哲学とは、「本当はそれはどうなのか」自分で言葉を使って考え、そして考えた事柄を言葉を使って他者と摺り合わせながら、共通了解していく技法でもあるんです。
だからこそ、これまで義務教育的な過程で「わざわざ、そんなこと、どうでもええやん」というところをスルーしないように心掛けると、まあ、このくだらない人間世界ですけれども、少しは色鮮やかになるというものです。
「鉛筆とは何か」
「林檎とは何か」
……わざわざ言葉を使って、考え直してみると、それは楽しいものですよ。
そのことによって、その人の生きている世界はコペルニクス的転回がされるはず(^O^☆♪
⇒ ココログ版 「わざわざ考えなくてもよい」ものを、「わざわざ考える」わけ: Essais d'herméneutique