「位置づけられている者」として構築されること

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 −−お聞きしたいのは、このインターナショナルという概念そのものについてです。最近、それについて話すのすら難しい。グローバルという言葉は許されません。一方で、位置(ロケーション)、国家(ネイション)、文化の空間といった語は使われています。その結果、このように思考の位置を問題にする思潮において、ディアスポラてきな考えはとても広く支持されています。位置その他の概念は、非常に重要な問題となっています。こういったことが話題になるといつものぼる名前のなかに、あなたは含まれています。
 このインターナショナルという概念についてどう思いますか。もちろん私たちは、インターナショナルが持つ啓蒙の概念には、どんなものであれしがみつくことはできません。しかし私がたったいまお話しした物語で使われる意味についてはどう思いますか。マルクスがインターナショナルだったという意味は、または、物理学者がハイゼンベルク量子力学の基礎を築いた。民族の利益よりも科学の倫理を重んじて、ナチス核兵器開発を故意に遅らせたとされてきた。なおその定説はいまは反証されている〕の生まれ故郷かなにかを見たときに感じる意味はどうでしょうか。大学人の生活は家を与えうると感じますか。インターナショナルの概念はある意味、現実感がないかもしれませんが、その概念からなにかを救いうるでしょうか。

 じつは大学人の生活は、以前にまして家を与えるようになっています。私たちの時代に、インド国内でどれほど人の循環があったにしろ、現在はもっと盛んです。もっともっとです。思うに、最近は人が押されるように行き来していて、私はいつもびっくりしてます。だって私は、合衆国では古い時代の移民ですからね。
 もうひとつ言えることがあります。個人的なことですが、私は海外にいるといつも「位置づけられている者」として構築されます。理由はばかげたことです。私がサリーを着ているからなのです。サリーを着るのは文化的な理由ではまったくなく、服装を変えようと思いつかないからなのですが。サリーの方がずっと安上がりです。私はファッション業界を軽蔑していて、その為政者ではありません。私が着ているのは、二〇年か三〇年前から持っているひどいチャパ(プリント地)の絹のサリーですが、ちゃんとコーディネートできているかどうか、まったくのところあやしいものです。野暮なベンガルの大学人風の着こなしですよ。残念なことに、それに慣れきってしまって、変わりようがありません。これが文化的な表明と受け取られるのです。私の方としては、自分が服装の習慣を変えられないことに、最近、少々我慢できないことがあるんですがね。合衆国のインド人コミュニティは、もっとも豊かな少数派グループで−−第二、第三世代の子どもたちはかなり位置づけが変わっています。地下鉄の駅で彼らの一人に、とても「勇気がある」と褒められましたよ。私がサリーを着ていたからです。自分のイメージをどうとらえたらいいか、さっぱりわかりません。信じられないぐらいにおなじみの、いつもながらの、ワンパターンの服装をずっとしているというのに……
    −−ガヤトリ・スピヴァク(大池真知子訳)「付録 家−−私的な会話」、『スピヴァク みずからを語る 家・サバルタン・知識人』岩波書店、2008年、161ー163頁。

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「『位置づけられている者』として構築」されてしまうのは不可避なのでしょうか。
とくにその出自を位置する装いが同伴した場合、本人の意図とは別のところに定位されてしまう。

人間はだいたい、「自分のイメージをどうとらえたらいいか、さっぱりわかりません」というのが素朴な生活の実感なのではないかと思います。

否、そのイメージを構想し、戦略的にアピールする人間そのものが、それによって表象しようとするものを破壊し、「声なき声」を封じてしまう。

自分自身が自分自身であること、それは意識化された「勇気がある」というのは違う、人間の生きる勇気のはずですが、「勇気がある」と称賛された「位置付けられる」ことへの定位は「勇気がある」ということとも似て非なるものなのだと思うのだけれども……。





⇒ ココログ版 「位置づけられている者」として構築されること: Essais d'herméneutique


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