「近代社会は、あらゆる側面において、基本的に文書化されることで組織されている」





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 僕は東大の駒場キャンパスで一九九六年から足かけ三年間、「立花ゼミ」というのを開講しまして、そのゼミのタイトルは最初の二年は「調べて、書く」、三年目は「調べて、書く、発信する」としました。
 タイトルを「調べて、書く」にしたいといったら、東大の世話役のセンセイにエエッ? と驚かれましたが、僕は「調べて、書く」ことこそが教養教育の一番のポイントであると思っていたし、いまも思っています。この「立花ゼミ」の課程でできたのが『二十歳のころ』、『環境ホルモン入門』、『新世紀デジタル講義』という三冊の本(いずれも新潮社刊)です。『二十歳のころ』のはしがきで、なぜ、「調べて、書く」なのかということについて次のように書いています。

 さて、なぜ「調べて、書く」なのかといえば、多くの学生にとって、調べることと書くことがこれからの一生の生活の中で、最も重要とされる知的能力だからである。調べることと書くことは、もっぱら私のようなジャーナリストにだけ必要とされる能力ではなく、現代社会においては、ほとんどあらゆる知的職業において、一生の間必要とされる能力である。ジャーナリストであろうと、研究職、法律職、教育職などの知的労働者であろうと、大学を出てからつくたいての職業生活のかなりの部分が、調べることと書くことに費やされているはずである。近代社会は、あらゆる側面において、基本的に文書化されることで組織されているからである。
 人を動かし、組織を動かし、社会を動かそうと思うなら、いい文章が書けなければならない。いい文章とは、名文ということではない。うまい文章でなくてもよいが、達意の文章でなければならない。文章を書くということは、何かを伝えたいということである。自分が伝えたいことが、その文章を読む人に伝わらなければ何もならない。
 何かを伝える文章は、まずロジカルでなければならない。しかし、ロジックには内容(コンテンツ)がともなわなければならない。論より証拠なのである。論を立てるほうは、頭の中の作業ですむが、コンテンツのほうは、どこからか材料を調べて持ってこなければならない。いいコンテンツに必要なのは材料となるファクトであり、情報である。そこでどうしても調べるという作業が必要になってくる。
 調べて書くということは、それほど重要な技術なのに、それが大学教育の中で組織立って教えられるという場面がない。これは大学教育の大きな欠落部分だと思う。といっても、調べて書くということは、そうたやすく人に教えられるものではない。それは抽象的に講じるだけでは教えることができない。どうしてもOJT(on the job training 現場教育)が必要である。そう考えて、このゼミナールをはじめたのである。

 ここに書いたように、「調べて、書く」ことこそ、教養の基本です。「知識」としての教養ではなく、「技」としての教養の基本です。それこそ、高等職業人の身につけるべきリテラシー(読み書き能力)そのもののわけです。
 人間の知的能力の基本は言語能力にあります。人間の文化はすべて、言葉を道具として使いこなすことによって発達してきました。だから昔から、学問のあることとと読み書きのできることが、同じliterateという言葉で表現され、その能力がリテラシーと呼ばれてきたのです。中世の大学が基本教養として教えた三学四科の三学とは、文法学、修辞学、論理学のことです。この三学が言語能力の基本だから、そこに力点を置いたのです。この三学の上に、文章能力、スピーチ能力、対論能力、説得力、考える力が築かれるわけです。それさえ身につけることができれば、この社会に乗りだしていくことができます。
 「調べて、書く」という場合には、この言語能力にプラスして、調べる能力が必要です。書く前に、そもそも書くに足る内容を見つける能力が必要だということです。自分が書こうとしているテーマに関して、情報を集め、それを取捨選択し、整理して、その中から書く能力を組み立てていく情報整理能力が必要です。その前に情報探索能力が必要だし、その前にまずもって何よりも自分のテーマを見つけるための問題発見能力が必要です。
    −−立花隆東大生はバカになったか 知的亡国論+現代教養論』文春文庫、2004年、270−273頁。

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以前、ツイッター立花隆(1940−)氏の「近代社会は、あらゆる側面において、基本的に文書化されることで組織されている」という議論を紹介したかと思いますが、一応、その出典といいますか前後の部分を紹介しておきます。
※ノンフィクション作家としてではなく知的啓蒙者としての氏の議論には賛否両論ありますがここではいったん措きます。

ホントは、『二十歳のころ』(新潮文庫)が初出になるのですが、立花氏自身が『東大生はバカになったか』(文春文庫)でそれを紹介しながら、補足する議論を展開しておりますので、こちらになった次第です。

いろいろ気になる言及になるのですが、

(1)調べて・書く・発信する能力ということ。
(2)「知識」としての教養ではなく「技」としての教養ということ。
(3)本来の大学教養のありかたとその展開ということ。

そして……(4)「近代とは……そしてそれがかぎりなく連続性として続いている現代もそうですが……どういう社会なのか」ということ。

時間のあるときに少し、この4点を詳論したいと思います。

このところ、忙しくて時間がなく、紹介で終わりというパターンが多くてすいません((((;゚Д゚)))))))






⇒ ココログ版 「近代社会は、あらゆる側面において、基本的に文書化されることで組織されている」: Essais d'herméneutique


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