読むことから生きる糧へ転換すること
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教授過程は、思考の良い習慣を産み出すことに集中すれば、それだけ統一されているのである。われわれは思考の方法について論じてよいのであって、それは間違っているわけではないが、大切なことは、思考することそのものが教育的な訓練の方法なのだ、ということである。だから教授法の要点は、熟慮の要点と全く同じなのである。それらは、以下の諸点である。まず第一に、生徒に本物の経験的場面を与えなければならない−−生徒がそれ自体のためにそれに興味をもつような、連続的活動が行なわれなければならないのである。第二に、この場面の中で、本物の問題が、思考を呼び起こす刺激として、現われ出なければならない。第三に、生徒は、それを処理するのに必要な、情報をもつべきであり、観察を行うべきである。第四に、解決策が生徒の心に浮かび、しかも、生徒がそれを整然と展開する責任をもつべきである。第五に、生徒は、自分の考えを適用して試し、それらの意味を明らかにし、自分でそれらの妥当性を見出す機会と必要とを持つべきである。以上の五点である。
−−デューイ(松野安男訳)『民主主義と教育 上』岩波文庫、1975年、259−260頁。
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昨日の哲学の講義では、哲学という枠組みから一旦離れて「本を読むこと」について少々お話を。
大学生の学習において、それまでの義務教育と最も異なる側面とは何かと言えば、やはりどれだけそのひとが本を読んだかということです。換言すれば、授業時間の教室で学問とか学習が完結しないということを意味していると思います。
教室の時間というのはひとつのきっかけを与えるだけにすぎません。
だから自分で本を読んで開拓していくしかありません。
本は読んだ方が、読まない方よりもいい。
そのことはこれまでの経験で誰しもが分かっております。
しかし、では具体的にどう読むべきなのか……これはテクネーの議論と捉えられると困りますけど……というところを、ひとりひとりがこれまでの読書経験をふりかえりつつ、仲間達と意見を交わし、よいそれがみつかれば試してみる……そいうところは必要だろうとしばし議論。
何しろ「本を読め」と言われても「何から読めばいいのか」誰も教えてくれるわけではありませんから。
ともかく本は読んだ方がいい。
迷っているならその間に一頁でも読まないと進みません。
しかし、人間の生命は無限ではなく有限です。
であるならば、人が一生かかって読むことの出来る本の量にも限界があります。
だとすれば、数百年にわたって読み継がれている古典名著とよばれる良書から読み進める他ありません。
別に漫画を読むなという単純な議論ではありません。
漫画も多いに読めばいいと思う。
しかしそれと同じぐらい良書も読んだ方がいいという話です。
そしてこれまでの知識の吸収=学習観というドクサが、人に誤った読書観を植え付けていることも多々あるのでそこも指摘した次第です。
要するに、本を読むことによって「新しい知識」が増加することは言うを待ちません。
しかしそれだけが本を読むということでもないということです。本を読むということは直接、過去の賢者や哲学者たちと読み手が対話をするということ。
対話をするということとは何かといえば、それは思索しながら読書し、読書しながら思索を重ねるということです。
知識は確かに少ないよりは多い方がいいでしょう。
しかし、それは手段にすぎません。
そこからそのひとがどれだけ知識を知恵へ転換できるのか……、それが思索・熟慮にかかっていると思います。
ひとりひとりの学生さんがより沢山の本を深く読んで欲しいと思います。
しかし、同時にそこから学んだものを自分自身の生きる糧へと転換すること、それだけは失念してもらいたくない部分ですねw
⇒ ココログ版 読むことから生きる糧へ転換すること: Essais d'herméneutique