個々人が(銘々別々に)本質的に情熱をもって一つのイデーに関係し、それから一致団結してその同じように一つのイデーに本質的に関係する、ということ




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個々人が(銘々別々に)本質的に情熱をもって一つのイデーに関係し、それから一致団結してその同じように一つのイデーに本質的に関係する場合、その関係は完全であり正常である。その関係は、個人個人で別々である(各人は自分の自己をそれぞれ独立にもっている)が、イデーから見ると、一つに結びあっているのである。本質的に内面に向かっておれば、人と人との間にはしとやかな慎み深さがあり、これが野蛮なあつかましさをさえぎる。イデーに対して一致団結して関係をもてば精神が高揚し、背しんが高揚するとそれがまた全体のために個人個人の些事を忘れさせる。こうして個々人は動物が群棲するような意味ではお互いに接近し過ぎることが全くなくなる。それは彼らがイデーに基づく距離を保って団結していればこそなのである。べつべつに離れたものが団結するのは、うまく編成されたオーケストラの完全な音楽である。これに反して、個々人がただ一塊となって(したがって個人個人が内面的に分離していないで)イデーに関係するにすぎない場合には、横暴、放縦、放埓な振舞が生ずることになる。しかし、一塊となっている個々人にイデーというものがなく、また個人個人がべつべつに本質的に内面に向かっていない場合、そのとき野蛮が生まれるのである。天体の調和は、星辰の一つ一つが自分自身と全体とに関係している統一性である。この二つの関係の一つが取り去られると、混沌となる。個々人の世界においては、この関係のただ一つだけが構成要素なのではない。だから二つの形式が存在している。自分自身とに対する関係が取り去られると、イデーに対して群衆は暴動のような関係をもつことになる。しかしまたこのイデーに対する関係が取り去られると、そこに野蛮が生ずる。そこで個々人は、むやみやたらに外に向かって、お互いに押し合いへし合いもみ合うことになる。そこにはお互いに礼儀正しく離れ合う内面性の慎み深さがないからである。そこで、何の役にも立たない動揺また動揺となる。誰ひとり銘々自分で何かを持つこともなく、またみんなが団結して何かを所有するということもない。そこで彼らはむかっ腹を立て、口争いをすることになる。
    −−キルケゴール(桝田啓三郎訳)『現代の批評』岩波文庫、1981年、12ー13頁。

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ちょっと別件……現代という時代が情熱喪失の変わりに小賢しい「分別」を振り回すことになって行動を躊躇する時代(=「行動するにいたらなかった」時代)という批判(1)……にて、キルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard,1813−1855)の『現代の批評』を再読していたのですが、冒頭でその論旨と直接には関係はなくはないのですが、ひとびとが「共同する」「共闘する」「手を結んで立ちむかう」“集団のあり方”について言及があったので少し抜き書きしておきます。

「個々人が(銘々別々に)本質的に情熱をもって一つのイデーに関係し、それから一致団結してその同じように一つのイデーに本質的に関係する場合、その関係は完全であり正常である。その関係は、個人個人で別々である(各人は自分の自己をそれぞれ独立にもっている)が、イデーから見ると、一つに結びあっているのである」。

団結ありきではなく、個々人が銘々別々でありながら、そのイデーなどに対して本質的に納得して、情熱をもって関係していく中で、その集合というのが「美しく」機能的に動き出すものなのかも知れませんね。

エクレシア (ἐκκλησία)、和合僧団としてのサンガ(संघ saMgha)のひとつの現代的展開を考えるうえで、示唆に富んだ一文と思われます。

さて……。
今日は休みでしたが病院の検診で一日が終わってしまいました。
少し早いですがテキトーに呑んで墜ちようと思います。

(1)「現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激にぱっと燃えあがっても、やがて小賢しく無感動の状態におさまってしまうといった時代である」。キルケゴール、前掲書、23頁。



⇒ ココログ版 個々人が(銘々別々に)本質的に情熱をもって一つのイデーに関係し、それから一致団結してその同じように一つのイデーに本質的に関係する、ということ: Essais d'herméneutique


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