【覚え書】「こんな光景があった! パンを食べる人が急増」、『毎日新聞』2011年7月16日(土)付。




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こんな光景があった! パンを食べる人が急増 長山靖生 
 民衆が「パンがない」と騒いでいると聞いて、「パンがなければ、ケーキを食べてればいいでしょう」といったのはマリー・アントワネットだったが、米騒動は日本人の食生活を揺さぶるものとなった。
 外国米の輸入はもちろんのこと、蕎麦やうどん、そしてパンなど米以外の食品を主食とすることが検討された。もっとも、蕎麦の価格も高騰しており、かえって高く付いた。飛躍的に増えたのはパン食だった。
 当時、東京の労働者のほとんどは、昼食には弁当を持参していたが、独身労働者の多くは仕出し弁当を利用していた。その金額は一食当たり十銭から十二銭が通り相場だったが、米価の高騰で十五銭以上に跳ね上がった。そこで弁当の代わりにパンを食べる人が急増したのだ。大正後期にパン食が増えたのはモダンライフを楽しむためではなくて、水田に適さない土地でも収穫できる麦を原料にしたパンのほうが、安かったためだった。
 また、代用食品・安い食材の研究も盛んに行われた。旧制女子専門学校などの教育機関では、「三食五銭の副食研究」や「外米美味調理法」といった生活防衛術が講義されていたが、手間がかかって実用的ではないものが多かったらしい。
 それでも、東京市田尻稲次郎市長も、豆飯の試食会を開くなどして、安価生活の普及に努力。横光利一「紋章」のモデルとなった発明家の長山正太郎は、米を使わず、バナナの皮を主原料とする酒を考案した。(ながやま・やすお=評論家)
    −−「こんな光景があった! パンを食べる人が急増」、『毎日新聞』2011年7月16日(土)付。

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大正時代の米騒動が契機となってパン食が急増したとは……知りませんでした。






⇒ ココログ版 【覚え書】「こんな光景があった! パンを食べる人が急増」、『毎日新聞』2011年7月16日(土)付。: Essais d'herméneutique