あれかこれかの議論よりも「科学的忠実」と「自己にある特殊性の認識」の緊張関係に立つこと




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 日本人は、哲学的国民ではないが、しかし科学的国民で、世界的に出来上つた公式には甚だ忠実であるが、それと自分自身の現実との対比、すなわち自己にある特殊性の認識に粗略であるから、その科学的忠実も徹底しないのである。更に他の特殊性の認識に熱心な日本人も多いのだが、それらの人々は不幸にも科学的忠実を欠いているために、その信ずる自分の特殊性が単なる主観的幻像に堕し易い。
    −−長谷川如是閑「危機・不安の克服意識」、『経済往来』1935年3月。

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※これもツィッターのまとめですが、一応残しておくか。

「理論か現実か」という二者択一に陥りやすい当時の日本の知的状況を批判した長谷川如是閑(1875−1969)は、そうしたあれかこれかの議論よりも「科学的忠実」と「自己にある特殊性の認識」の緊張関係を重視しました。

長谷川の批判は、政治哲学宗教をはじめとする外来の西洋思想の皮相的な受容に対する批判であると同時に、伝統主義や日本主義といった特定の伝統的要素のみをとりあげそれを実体化する思考方法に対する批判ともなっております。

早い時期から日本の膨張主義を批判すると同時に、外来文化の受容の軽薄さと特殊性への居直りの両者を撃った議論のリアリティは今なお生彩を失っておりません。

この絶妙かつ強(したた)かな長谷川の現実感覚。
今の時代だからこそ心に留めおきたいものです。







⇒ ココログ版 あれかこれかの議論よりも「科学的忠実」と「自己にある特殊性の認識」の緊張関係に立つこと: Essais d'herméneutique