ただ私は、原始的なものへのノスタルジーなど全然持ちあわせておりません






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 −−私たちは、映像、音響、スペクタクルの社会のなかで生きています。この世界では、退いて反省するための場所はわずかしかありません。もしこのような発展がさらに速度を増せば、私たちの社会はその人間性を損失することになるのでしょうか。

 もちろんそのとおりです。ただ私は、原始的なものへのノスタルジーなど全然持ちあわせておりません。そこに何か人間の可能性があるとしても、その可能性はあくまで語られねばなりません。言語偏重主義という危険はあります、けれども、他者への呼びかけである言語はまた、「自己を疑うこと」の本質的な様態でもあるのです。そして「自己を疑うこと」こそが哲学にとって固有のことがらなのです。ただそうは言っても、私は映像を告発しようというのではありません。私が確認したいのは、オーディオ・ヴィジュアルはその大部分が気晴らしであるという点です。それは、先ほど話したような眠りのなかへ私たちを沈みこませ、そこにとどめておくような一種の夢なのです。
    −−エマニュエル・レヴィナス合田正人・谷口博史訳)「不眠の効用について(ベルトラン・レヴィヨンとの対話)」、『歴史の不測 付論:自由と命令/超越と高さ』法政大学出版局、1997年、183−184頁。

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すこし疲れているのと、時間がないのでアレですが、素描で恐縮です。

職業運動家式のあらゆる「アンチ・○○・ニズム」の最大の問題点は、現状を批判するけれども、代替え案を提示せず、せいぜいのところ「自然に還れ」式の無責任な「批判のための批判」の垂れ流しに過ぎないのじゃないのかと思うことがよくあります。

たしかにその「アンチ」の対象とすべき「問題」に関しては、そりゃア、「何とかしなきゃまずいべよ」ってことは承知しているのですが、だいたいの問題において、それを「ぶっ壊したら解決する」ってもんでもないのが実情ではないでしょうか。

その意味では、問題のある現状を固陋に守旧しようとする連中、そしてかけ声ばかり大きな連中のスローガンというのは、「眠りのなかへ私たちを沈みこませ、そこにとどめておくような一種の夢」なのかもしれませんね。

どこまで醒めて行動することができるのか……。

試されているような気がします。





⇒ ココログ版 ただ私は、原始的なものへのノスタルジーなど全然持ちあわせておりません: Essais d'herméneutique

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