科学高等教育機関としての大学




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 大学における科学は、たまたま特別な才能に恵まれればできるとか、変転きわまりない経済的、社会的、政治的な諸条件が幸いにも適切であればやれるというものではない。むしろ科学は、大学において〈長い年月をかけて打ち立てられる〉ものである。大学は、そのように打ち立てられる一つの制度、詳しく言えば、科学の高等教育機関である。さまあまな学科や専門領域(専攻)、学部に別れて、分業を行う大学は、学芸総体に関する教育と研究の最も重要な場所である。
 その理念と内的ダイナミックスから、大学は、社会的、政治的、言語的、文化的なさまざまな限界を超えるものとして設立されている。(ナチズムの時代や社会主義諸国におけるような)後退を別とすれば、大学は最初からいつも、相互に活発な交流を行い、教師にせよ学生にせよ、あらゆる国の人々に開かれているものであった。
 講義やセミナー、図書館、研究所、病院、実験室により、また他の大学や科学アカデミー、開かれた研究所と協力して、(工科系の単科大学や総合大学を含めて)大学は、次のような基本的課題を遂行する。(一)(神学者や法学者、経済学者、医者、ギムナジウムの教師、社会科学者、自然科学者そしてもちろん技術者の)学問的(アカデミックな)職能教育、(二)学問上の後継者の育成、そして何よりも(三)科学研究。
 現代の生活世界の科学化は、この三つの課題のいずれにおいても、量、質、ともに増大した要求に、大学が直面せざるを得ない状況を生みだしている。社会一般の議論には、研究の場を求める声が高まっており、時代に即した新しい教育課程への要望がクローズアップされている。この点については、多様化し、高度に特殊化した研究に対する社会的ニーズが高まっていることを忘れてはならない。新しい、あるいは流行している領域についてだけでなく、研究の場ならびに学問の後継者を養成できる場を飛躍的に拡大したり、親切することが求められているのである。
 大学の学問的エートスからすれば、問題全体に対してきわめて慎重な態度で取り組む必要がある。学問全体が−−分業が必要であるとしても−−個々の研究法およびその応用から生ずる、社会的なリスクや二次的影響を研究するということもその一つである。また、科学によって後々まで規定され続ける生活世界に見られる二面性、すなわち、科学かが技術による利便や豊かな暮らし、医療の向上だけをもたらすのではなくて、人間関係を脅かし、自然的な生活のリズムを激変させ、社会的環境を急変させ、その結果、方向喪失の機器に導き、中にはすでに恐るべきものとなっている自然環境の破壊をももたらすという事実についても、研究がなされなければならない。したがって大学は、たんに理論的な好奇心(Blumenberg参照)の場、つまり、自然や社会についての技術、あるいは解釈学的、または臨床的な同期に基づくだけの場であってはならない。古典ギリシアの哲学や学問の伝統に則って、大学は、批判的、つまり自己自身に対しても批判的である思考のための場でなければならない。この思考は、時に見かけられる個別科学を絶対化すべきだという主張とは異なり、或る専門や方法、態度だけに限られない思考である。
    −−オトフリート・ヘッフェ(青木隆嘉訳)『倫理・政治的ディスクール 哲学的基礎・政治倫理・生命倫理法政大学出版局、1991年、243−245頁。

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⇒ ココログ版 覚え書 科学高等教育機関としての大学: Essais d'herméneutique


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