教養科目というのを時間つぶしの余分な知識としか考えないダメな学生や元学生、それを容認してしまう大学教員が増えており、私はかなり疲れている




        • -

 哲学者・阿部次郎が主人公三太郎に仮託して自らの思索の軌跡を綴った『三太郎の日記』(一九一四、一五、一八)では、三太郎の視点を介して、ギリシア神話、聖書、ダンテ、カント、ヘーゲルゲーテニーチェトルストイ等、膨大な量の西洋の古典的な書物の世界を渉猟しながら、「人生いかに生くべきか」という根源的な問いに対する答えを探求していくという、いかにも“教養主義的”な叙述スタイルが採用されている。
 そして、この問いに対するヒントを与えてくれるものとして、西欧的な個人主義の神髄とも言うべき「哲学」、あるいは、漱石や鷗外の作品のように、哲学的なテーマを中心に据えた文学作品・評論に対する関心が高まることになった。「哲学」的な問いを中心に、[教養=人格形成Bildung]観が形成されていくという考え方は、一九世紀ドイツの教養主義と共通している。大正デモクラシーの時代は、西洋的な「哲学」が、高等学校・大学で教育を受けた人々の間で認知され、影響力を発揮するようになった時代でもある。
 ただし、ここで留意しておく必要があるのは、日本の“教養主義”が、西欧のそれのストレートな再現であったわけではなく、非西欧国でありながら強引に“西欧的なもの”を模倣したがゆえの特性を示していたということである。わざわざ言うまでもないことだが、ドイツやフランス等の西欧諸国は、古代ギリシア・ローマ以来の人文主義的な「教養 humanitas」の伝統−−ラテン語の〈humanitas (フマニタス)〉は、文字通りにとれば「人間性」であるが、それはあらゆる人に生まれつき備わっているものではなく、雄弁術、文法、修辞学、論理学などの知識を身に付け、自己を研くことで獲得されるとされた−−を共有していた。近代ドイツにおいて、ギムナジウム(大学予備教育機関)と大学を中心とする知識人の養成システムが再編されていく過程では、ギリシア・ローマから受け継がれてきた「フマニタス」的なものをベースにしながらも、デカルト=カント以降の近代哲学や、ゲーテ、シラー等によって確立された国民文学などが身に付けるべき基礎的な素養として新たに付け加えられた。近代的な「自我」観を中心に形成された知の領域が、市民的な「教養」の中核に置かれたことによって、「(普遍的理性を内在する)自我を一人前の市民としての自立へと導くための教養」というイメージが形成されたわけである。つまり、“自我”が成長するための糧として、西欧の知の歴史の中で徐々に形成されてきた[人間性=教養ある人格]のイメージに即して、必要な知識を体系的に取得することが目指されたわけである。
 そのように、知識人教育の制度・慣習と結びついて歴史的に体系化されてきた西欧の「教養」に比べると、日本の場合、そうした伝統をもともと共有していなかったため、“教養”を支える知識がどんどん輸入されてきても、「教養」という抽象的な理念それ自体はなかなか理解されなかったきらいがある。ドイツの「教養」観には、古典的な「フマニタス」のように「『人間らしさ』の条件をかなり強く規定するもの」、日本的に言い換えれば、基本となるべき「型」を身に付けていくことの重要性を強調する側面と、その「型」による制約を乗り越えて、自由な想像力によって、理想的な自己のイメージを追及する側面とがある。両側面の間の緊張感を通過することを通して初めて、「人格形成」が意味を持つわけである。
 しかし日本にパッチワーク的に輸入された“教養”においては、共通の基礎となる「型」の部分が具体的にどのように構成されるべきかはっきりしなかったために、とにかく“偉大な西洋の思想家”の書いたものを雑然と読んで参考にしてみる、ということになりがちであった。三太郎の試行錯誤の跡を辿る『三太郎の日記』の文体は、見方によっては、そうした方向性の定まらない雑然さを象徴していると言える。
 無論、西欧人の古典をそのまま継承する必要はなく、例えば、記紀万葉以来の日本の古典あるいは四書五経などを核にしながら、西欧のものを必要に応じて接ぎ木してもいいわけだが、そういう“和魂洋才的”な形での「教養」再構築の構想も生まれてこなかった。そのため、高等学校や大学で学ぶ、あるいは知識人たちによって書かれた“教養的”な諸知識が、「教養=人格形成」という高尚な理念となかなかストレートに結び付かないというもどかしい状態が生じることになった−−その最終的帰結として、現代の日本の大学では、教養科目というのを時間つぶしの余分な知識としか考えないダメな学生や元学生、それを容認してしまう大学教員が増えており、私はかなり疲れている。
    −−仲正昌樹『日本とドイツ 二つの全体主義 「戦前思想」を書く」光文社新書、2006年、161ー164頁。

        • -


ですから……。

同じく「私はかなり疲れている」。







⇒ ココログ版 教養科目というのを時間つぶしの余分な知識としか考えないダメな学生や元学生、それを容認してしまう大学教員が増えており、私はかなり疲れている。: Essais d'herméneutique


Resize0035

日本とドイツ 二つの戦後思想 (光文社新書)
仲正 昌樹
光文社
売り上げランキング: 187397