「どんなもんだーい」という得意顔から出た「実」






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【おわび】
江沢民前中国国家主席死去」の報道について
2011.10.9 15:04 [中国]

 7月7日の速報および号外(電子版)で、日中関係筋の情報として「江沢民国家主席死去」の見出しとともに、「中国の江沢民国家主席が6日夕、北京で死去したことが7日分かった」と報じました。しかし、江氏は10月9日、北京で開かれた辛亥革命100周年記念大会に出席したことが確認されました。見出しおよび記事の内容を取り消し、関係者と読者のみなさまにおわびします。
産経新聞速報・号外(電子版)2011年10月9日15:04
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111009/chn11100915050005-n1.htm

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名匠・小津安二郎監督(1903−1963)の晩年の作品に『お早う』(松竹、1959)というコミカルなドラマがある。

川沿いに面し建売り住宅が軒の連ねるサラリーマン家庭の小学生の二人の子供が主人公という小津の作品ではめずらしいホーム・コメディだが、その冒頭がまた笑わせてくれる。

数人の小中学生たちが通学途中の土手の上……。

彼らが熱中しているのはある「遊び」だ。
その「遊び」とは、「おなら合戦」!。

一人が相手の額を押すとそのタイミングで「おなら」を出すのが一人前というたわいのない遊びだ。うまくできれば「どんなもんだーい」という得意顔する子供たち。

しかし、うまくいかなくて「実」が出てしまう少年ももちろんいる。

あわてて自宅へ戻って……という寸法だ。

さて『産経新聞』はこれまで偏ったナショナルアイデンティティレイシズムを執拗なまでに宣揚してきた全国紙としてつとに有名だが、これまでも人畜無害とはほど遠い「おなら」をならしつづけて世間を騒がせてきた。

しかし、とうとう「実」が出てしまったというものでしょうかw

さて……。
コメディとしての『お早う』はその軽快な物語のステップとは別にもう一つのテーマがある。

それは「言葉」の問題だ。

劇中、「言葉」の責任を叱責された子供たちは、大人たちの繰り返かえす相手を気遣う言葉としての「挨拶」が無意味だ、開き直る一枚がある。

「言葉は無用」とばかりに子供たちは決め込んで、無言で生活していく。しかし、言葉を発しないことで不手際も生じてくるのは必定だ。

言葉は現実にはまったく無用なものでもない。

そして終劇へと向かう。親や大人に反発する子供たちの傍らには、お互いの行為を言い出せない佐田啓二(1926−1964)と久我美子(1931−)が姿が常にある。

ラストシーンは駅で電車を待つ、恋人以前の微妙な二人の姿。そこでの交わされるやりとりは「大人たちの無駄な会話」のリフレインだ。

しかし、それは同時にふたりがお互いの好意を確認しあう「愛の言葉」にもなっている。

仮象仮象と扱い、実体を実体として表すのが人間のやりとりとしての生きた言葉である。だとすれば、仮象を無理矢理実体として扱ったり、実体を仮象に過ぎないとして扱ってしまうことは言葉のインフレとデフレの極みになってしまう。

その造作を無遠慮に繰り返してきたのが『産経新聞』。
これは「チョンボ」や「お詫び」ですむ問題ではないと思うのだけど……ねぇ。

※ 蛇足ですが、7月の報道はすでに「削除」されていますネw







⇒ ココログ版 「どんなもんだーい」という得意顔から出た「実」: Essais d'herméneutique


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