「われわれには、これに近づいて行くことはできる。だが、恐らくは、決してそれを完全に解明しきることはできないであろう」というジレンマ





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 ヘーゲルが正しく洞察していたように、この世界の自覚には、哲学、宗教、芸術の三つの形態がある。世界観たることを要求しない宗教は、ひとつとして存在しない。そしてまた芸術も、世界の全体を何らかの仕方で把握できる見地を求めて努力する。芸術家が創作し、鑑賞者が享受する芸術作品は、必ずや個性的であり、個体的な対象であらざるを得ない。だが、芸術作品は、その背後に何かより大きな連関を指し示すものが控えていて、初めて真に芸術作品なのである。われわれは個々の偉大な芸術作品において深い感銘と共に広大な世界的背景を見遣るのである。われわれの多くは、あるいはほかならぬこの芸術的鑑賞において、ありきたりの人生では大きな運命に直面しなければ体験できないような何ものかと出会うことになるであろう。かくして芸術は、普通にはわれわれの看取することのできないことがらにわれわれを対置するものである。とはいえ、たとい芸術的鑑賞がそのことがらの究極の深みをわれわれの眼前にもたらすとしても、その深みは、われわれの知識の近づきうるものとはならない。哲学的な思索もまた、この究極的なるものへとわれわれを導いていくのであって、その点でこの学が拾いあげる未解決の謎に見入れば見入るほど、いっそう明瞭に形而上学的な問題の持つ非合理的残余を見いだすことになる。たしかにわれわれには、これに近づいて行くことはできる。だが、恐らくは、決してそれを完全に解明しきることはできないであろう。
    −−ニコライ・ハルトマン石川文洋・岩谷信訳)『哲学入門』晃洋書房、1982年、231−232頁。

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月曜の哲学講義にて、とりあえず、古代ギリシア世界までの概況が一段落。

取り急ぎ来週、そのご展開をざっくり追跡してから、あとはクロニクルな内容というよりも、テーマ別に少しつっこんで議論する予定です。

ただ、やはり古代ギリシアに関してはホワイトヘッド(Alfred North Whitehead, 1861−1947)の有名な言葉、すなわち「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」とすれば、最初の注釈者にして最大のオルターナティヴを提示したのが弟子のアリストテレスAristoteles,384 BC−322 BC)になるわけなので、プラトン(Plato,424/423 BC−348/347 BC)と一緒にそこは丁寧に紹介させていただいた次第です。

通俗的な縦割りですが、プラトン的なスキームとしてイデア論を取るのか、それともアリストテレス的な、ホーリズムともいうべき、体系的内在論で攻めるのか、やはり西洋の思索の展開というのは、このどちらかに準拠した場合が殆どです。

ですから、このあたりはしっかりやらないとやっぱり、はじまりませんからね。履修された学生のみなさま、少し細かい話しが多くて面倒だったかもしれませんが、ご容赦のほどw。

しかし、大切なことは、彼らの議論を知識として覚えるとか、理解するだけですませることではありません。

その議論を参考にしながら、世界をどのように「自分は見ていくのか」。そしてその世界とどのように関わっていくかということに収斂していくのではないかと思います。

まさにハルトマン(Nicolai Hartmann,1882−1950)が指摘する通り「世界の全体を何らかの仕方で把握できる見地を求めて努力」することが哲学である訳ですから。

そしてこの問題に対しては哲学のみならず、宗教も、そして芸術も同じように肉薄していくことは言うまでもありません。

宗教は、ダイレクトに世界像に肉薄させてくれるわけですし、芸術との出会いは「ありきたりの人生では大きな運命に直面しなければ体験できないような何ものか」と出会うことを可能たらしめてくれます。
※ここではその善し悪しの議論はひとまず措きます。

しかし、哲学と芸術のみは肉薄させてくれると同時に、肉薄していく眼を「水平化」「相対化」させてくれるのがその特質です。

ひとは何かに肉薄していくとき、大切なものに「目をつぶり」何かを「失念」することでそのスピードをあげて接近していくことが可能となります。しかし、それを肉迫すると同時に「目を開けたまま」「覚えた」ままでアプローチしていくことも実は大切な在り方なんです。

まあ、だから「われわれには、これに近づいて行くことはできる。だが、恐らくは、決してそれを完全に解明しきることはできないであろう」というジレンマに直面してしまうわけですけれども、これをその学の「力不足」とは嘆かないでほしいかなと思います。

単純に割り切れば割り切るで楽なのですが、その余韻をどこまで楽しむことができるのか。前者はわかりやすいかもしれませんが、前者だけでは理解できない・説明できないのも人間の生活世界の実相。であるならば、単純化をさけつつ、それでもなお果敢に挑戦していく営みは、ある意味では「力不足」というよりも、楽しみながら進んでいくもの……と理解したほうが実り豊かなものなのかも……知れませんよw







⇒ ココログ版 「われわれには、これに近づいて行くことはできる。だが、恐らくは、決してそれを完全に解明しきることはできないであろう」というジレンマ: Essais d'herméneutique


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