覚え書:「『梵漢和対照・現代語訳 「維摩経」』岩波書店 植木雅俊訳 評・前田耕作」、『読売新聞』2011年11月6日(日)付。






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『梵漢和対照・現代語訳 「維摩経」』岩波書店 植木雅俊訳
評・前田耕作アジア文化史家・和光大名誉教授)

文殊との対論」輝き新た


 奈良・法隆寺の美しい五重塔の初層内陣に須弥山を中心として東西南北四つの主題が塑造されていることは、訪れた人なら誰でも知っているだろう。仏伝の時軸に沿えば、北面の涅槃像土、西面の分舎利仏土、南面の弥勒仏像土となろう。東面の維摩
(ゆいまきつ)像土だけは他の主題とは切り離され、向かって左に維摩詰、右に文殊菩薩、下段に一群の眷属を配した場面が表出されている。端正な文殊と対照的に鬚髯(あご髭ひげとほほ髭)を蓄え、口を開き歯をみせ談ずる俗形の維摩との神韻漂う対話の場面となっている。わが国における「対論講説の相」を表す維摩詰像の原型である。聖徳太子によって法華経勝鬘経とともに社会救済の実践に不可欠な三経の一つとされたと伝えられる維摩経の最も重要な場面が、太子ゆかりの寺の塔本に造出されたことの意味は深い。
 紀元後1〜2世紀ごろに成立したといわれる『維摩経』がわが国に至りつくまでには、西域や中央アジアでのコータン語、ソグド語訳、中国での漢訳など、重訳の歴史を経ねばならなかった。日本の仏教に決定的な影響を与えた漢訳には、後3世紀に支謙によって訳された『維摩詰経』と後5世紀初頭、鳩摩羅什によって訳出された『維摩詰所説経』がある。
 しかし二人とも中国の人ではない。支謙は「大月氏国」の出であり、鳩摩羅什の出自は「亀茲国」であり、いずれも多言語に通暁した人たちであった。原典の文学的リズムを伝えるために心砕いた羅什の訳は、言葉が匂い出るように華麗であったが、それでも原語の「美しい文藻」は伝えられないと嘆いたという。後7世紀には維摩の故宅・方丈の址を訪ねた玄奘の訳『説無垢称経』もできあがった。
 『維摩経』の和訳は、河口慧海をはじめ多くの人びとによってなされてきたが、いずれも漢訳と蔵訳(チベット語訳)からのもので、肝心の梵語サンスクリット語)原本からの訳文はこれまでなかった。「本経のサンスクリット原典は、残念ながら現存しない」(仏教学者・長尾雅人)からであった。
 ところが1999年の夏、チベットポタラ宮殿の一隅から思いがけず本経のサンスクリット原典の貝葉(ターラ樹の葉)写本が大正大学の学術調査団によって発見されたのである。わが国では千数百年も前から秋10月になると維摩会を営み、講釈し親しまれてきた本経が初めて原典に基づき、梵漢蔵に相照らして現代語訳する機会が巡ってきたのである。
 『維摩経』の特色は、釈尊が「最後の旅」の途次立ち寄った商業が盛んな大都城ヴァイシャーリーを舞台にして、この地の雄族リッチャヴィの資産家で妻も子もあり、俗界に身をおきながらも「確実な知恵」を有し、あちこち自在に出没して「真理の教え」を雄弁に語り、人びとを「大いなる乗り物」(大乗)へと導く在家の菩薩ヴィマラキールティ(維摩詰)を主人公に据え、言説飛び交う多声的な対話劇に仕立て上げているところにある。 釈尊を慕う遊女アームラパーリの所有する静かなマンゴーの森の中、従う多くの出家者や菩薩たちと釈尊が「仏国土」について「心清ければ土もまた清浄」と穏やかに語らう時をもつ場から幕があく。
 しかしこの場には病に伏す維摩の姿はない。衆生病むゆえに病床にある維摩の想いを察した釈尊は弟子たちに見舞いにゆくよう促すが、誰も維摩の日頃の出家者に対する憚らぬ批判的言辞に怖れをなしてためらう。弟子たちの弁明の言葉が重ねられてゆくにつれ、次第に維摩の空の思想の骨格が明かされる。クライマックスは舞台を維摩の自宅(方丈)に移しての文殊菩薩との対論である。生と滅、言語と沈黙のパラドックスをめぐり哲学の核心を衝く問答で、沈思を誘う場面が圧巻だ。植木氏による現代語訳は、なによりも明晰な訳文と精緻で創意に富む訳注によって古経に新たな生命の輝きと躍動感を返し与えている。
 会津八一は奈良・法華寺維摩像を歌に詠み、「在家にして大乗の造詣最も深く、思索弁証の無碍自在を以て鳴る」と自注し(『南京続唱』)、武者小路実篤は「いかに生くべきかを教えてくれる」仏典と讃えた。寂寞のひととき熟読するに相応しい書である。

 ◇うえき・まさとし=1951年、長崎県生まれ。仏教研究家。著書に『仏陀の国・インド探訪』など。
 ◇まえだ・こうさく 1933年、三重県生まれ。アジア文化史家・和光大名誉教授。著書に『巨像の風景』『アフガニスタンを想う』など。

岩波書店 5500円
    −−「『梵漢和対照・現代語訳 「維摩経」』岩波書店 植木雅俊訳 評・前田耕作」、『読売新聞』2011年11月6日(日)付。

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