すべての人であってなんびとでもない抽象的な荒野であり真空帯





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 公衆は、ひとつの国民でも、ひとつの世代でも、ひとつの同時代でも、ひとつの共同体でも、ひとつの社会でも、この特定の人々でもない。これらはすべて、具体的なものであってこそ、その本来の姿で存在するのだからである。まったく、公衆に属する人はだれ一人、それらのものとほんとうのかかわりをもってはいない。一日のうちの幾時間かは、彼はおそらく公衆に属する一人であろう。つまり、ひとがなにものでもない時間には、である。というのは、彼の本来の姿である特定のものであるような時間には、彼は公衆に属していないからである。このような人たちから、すなわち、彼らがなにものでもないような瞬間における諸個人から成り立っている公衆というやつは、なにかある奇怪なもの、すべての人であってなんびとでもない抽象的な荒野であり真空帯なのだ。
    −−キルケゴール(桝田啓三郎訳)『現代の批判 他一篇』岩波文庫、1981年、77−78頁。

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人間を抽象的に扱うとは、具体的にいえば、おそらく人間を「手段」として扱うことになる。人間を「手段」として扱うということは、人間を人間として扱わないことに他ならない。

だとすれば、個人と個人の相互尊重をうち破るものであり、そしてそれは単なる利己主義の所作に過ぎなくなってしまう。

一人の人間の具体性からかけ離れてその人を抽象的に扱うということは利己主義を招くということなんだろう。

そしてこれは共同体に関してもおそらく同じである。

一人一人の人間の具体性からかけ離れて共同体を「さも分かったかのように」論じてしまう抽象的な立場というのは、単なる全体主義の所作に過ぎないものである。

共同体を抽象的に扱ってしまうということは全体主義を招くということなんだろう。

そしてその両者に共通しているのが「抽象化」という立場である。

ものごとを「抽象化」してしまった扱うことは確かに「便利」だし「スピーディー」である。しかし、その便利さや高速さに馴れてしまえば馴れてしまうほど、現実の人間ともそしてその人間の居住する共同体からも遠くかけ離れていってしまう。そしてそのあげく現出するのは「すべての人であってなんびとでもない抽象的な荒野であり真空帯」に他ならない。

このことに対して警戒的であるべきなんだろうと……思うんだけど。。。






⇒ ココログ版 すべての人であってなんびとでもない抽象的な荒野であり真空帯: Essais d'herméneutique



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