未来への希望に基づいて科学を方向づけていくことである。未来が見えなくなった地球の将来に対して、未来への道筋をつけて、人々に希望を与えること




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 いま政府は温暖化対策として、二〇一〇年までに後二〇基の原発を! などと、未だに言い続けている。原発の大増設は、現実には不可能だし、温暖化対策としても本来有効でないことは、政府官僚も各種審議会の委員も分かっているのに。そういう場で「右肩上がりのエネルギー政策をやめるしかないのではないか」と言おうものなら、各委員から「成長をやめたら日本は崩壊する」「人々の欲望を抑えることはできない」と集中砲火のような反論がかえってくる。この人たちはー、人々のあきらめを組織的に利用して、現状の国家形態・産業形態を基本的に維持していこうとしているのだ。
 ここで欠如しているのは、人々の未来に対する希望である。先に「理想」として述べたような、安全で自由な暮らしと未来に対する人間としての当然の希望、そのために努力したいという基本的な意欲は、誰でも持っているのに、あきらめの浸透が希望を抑えこんでしまっているのだ。
 そうであるならば、私たちはあきらめからの脱出、すなわち希望を、単に個人個人に期待するだけでなく、人々の心の中に積極的にその種を播き、皆で協力し合って育てていくものとしてとらえ直す必要がある。それを、私はオーストリアの友人ぺーター・ヴァイスにならって「希望の組織化」と呼びたい。
 私自身は、批判的作業や原発反対運動に終始して来た感があるが、基本的には、それは「よりよく生きたい」という意欲、明日への希望に発していた。しかし、そのようなものとして、うまくポジティブに表現できず、反対運動としてネガティブにのみ受けとられたことが、今日の危機をとめるための有効な運動を生み出せない原因だったのか。この点は、私個人の問題としてでなく、戦後の平和、人権、環境運動全体の問題として考えていかなくてはならない宿題だ。

いま、市民科学者として
 このように状況を認識するなら、「市民の科学」がやるべきことは、未来への希望に基づいて科学を方向づけていくことである。未来が見えなくなった地球の将来に対して、未来への道筋をつけて、人々に希望を与えることである。
 「市民の科学」は、科学技術の研究開発に一般的な巨大システムの片隅にあって、ほんのささやかな、しばらく前まではゼロに等しい位置を示すに過ぎなかった。私たちの世代の活動によって、相変わらずささやかではあるが、ある意味をもち得る存在として、社会に少しは定着し得たと思う。
 今後もこれが大きな位置を占めることはないだろうし、それでよいと思う。そうであっても、私たちは地球の未来を取り戻す、ないし、持続的なミラ死を築くための、構想を提示することができるだろう。これには、「市民の科学」としての専門性に裏づけられた想像力と構想力が必要で、この点においてこそ「市民の科学」が、従って市民科学者としての私自身が、力量を問われることになろう。
 しかし、そのような構想を提示できるなら、それは必ず人々の心に対する希望の種を播き、組織し、変革への流れを生む。科学は「希望の科学」として機能しよう。
    −−高木仁三郎『市民科学者として生きる』岩波新書、1999年、255−257頁。

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少し思い出したかのように故・高木仁三郎(1938−2000、核化学)博士の文献を読み直しているのですが、今日、再読しなおしたのが10年前の著作になりますが、亡くなる少し前にまとめられた『市民科学者として生きる』という作品。

この本が出版されたときは、当時、僕はメディアのオシゴトをしておりましたので「書評に」という話になって、先輩のライターと高木先生のもとを訪問した記憶があります。

そのとき、印象的だったのは、テクニカルな数値の話題とか禍々しい災いの話しよりも、「希望をどう見出していくのか」……そのことを熱心に語ってくださった先生のお姿が非常に印象的でした。

恥ずかしながら、そのときは「希望を紡ぐ」という意味がなかなかピンとこなかった。

といいますか……、例えば政策としてどのように転換していくのかというところに血が上っていたのかも知れませんが……そういう脊髄反射していたのは情けない話です。

が、再び読み直すなかで、ああ、やはりここか!と先生の最後のメッセージに納得せざるを得ないな……などと再読しつつ思った次第です。

「成長をやめたら日本は崩壊する」「人々の欲望を抑えることはできない」……などとスローガンを並べ、もっともらしい理由と複雑な利権構造を盾にして、核というものを推進しようとしても、そこで語れる構造の奥底には、「人々のあきらめを組織的に利用して、現状の国家形態・産業形態を基本的に維持していこう」とする心根が存在するということ。

この状況認識は必要不可欠でしょうね。

そして、そうした心根は未来に対する希望というものは「存在しない」と捨閉閣抛してしまう「あらきめ」であることをキチンと押さえておかない限り、そうした人間の心に根ざす闇を乗り越えることは恐らく不可能かも知れませんね。

それが、健康によくない、地球に良くないことは推進しようが否定しようが、程度の差はあれ、おそらくみんな理解している。

しかし、現状を認識するなかで、どのようにシフトさせていくのかという「希望」として切り開く力になることが出来るのか、それとも「あきらめ」“仕方がない”とゴマカシごまかし生きていくのか……という選択肢の違いは大きなものになるんだろうと思う。

「安全で自由な暮らしと未来に対する人間としての当然の希望、そのために努力したいという基本的な意欲は、誰でも持っているのに、あきらめの浸透が希望を抑えこんでしまっているのだ」。

……この自己抑制が一番恐ろしい。

丸め込む側っていうのは、世の東西を問わず、えてしてその狡獪さは、希望を抱くひとびとの無邪気さをしらないうちに「飲み込んで」しまうほど巧妙だというのが現実です。

そこに、どれだけ抗していきながら、現実に理想を着地させる「希望」を提示することができるのか。

恐らくここなんだろうなぁ。








⇒ ココログ版 未来への希望に基づいて科学を方向づけていくことである。未来が見えなくなった地球の将来に対して、未来への道筋をつけて、人々に希望を与えること: Essais d'herméneutique



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