「富の生産、流通、あるいは蓄積に参加できないということ」は果たして「怠惰」なのか?
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一七世紀の半ばに、急激な変化が起こる。狂気の世界が排除の世界に一変するのである。
ヨーロッパ全土で大規模な収容施設が作られる。この施設は狂者を収容するだけでなく、少なくともわれわれからみて非常に多様な人間を収容するためのものであった−−貧しい身体障害者、困窮した老人、頑固な怠け者、性病患者、すべての種類のリベルタン、家族や王権の意向によって公式の処罰を加えるのを避けたい人々、浪費家の父親、禁令に従わない聖職者など。要するに理性、道徳、社会の秩序に対して、「壊乱」の兆候を示す人々が閉じ込められたのである。そのしばらく前に、聖ヴァンサン・ド・ポールは、サンラザールの旧癩病院を、同じような監禁施設に転換している。やがて、最初は病院であったシャラントンが、後には新しい施設の手本に従うことになる。フランスでは、すべての大都市に、「一般施療院」が解説されることになる。
こうした施設には、医学的な使命はない。収容するのは、治療するためではないのである。社会の一員として生活していけないか、社会の一員であるべきではない人間が収容される。古典主義時代には、他の多くの人々とともに狂人が監禁されたが、ここで問題となっているのは、狂気と病の関係ではない。社会が自らとどのような関係を結ぶかであり、社会が個人の行動のうちに認めるものと、認めないものとどのような関係を結ぶかである。たしかに監禁は公的扶助の一つの手段である。多くは寄付金の恩恵をこうむっていることが、その証拠である。しかしこのシステムの理想は、それ自体で完結していることであろう。一般施療院には、ほぼ同時代のイギリスの貧救院(ワークハウス)のように、強制労働が厳存していた。紡ぎ、織り、さまざまな物を製作し、これを市場で安価に販売して、その利益で施療院を運営できるようにしていた。しかもこの労働の義務は、制裁の役割と、道徳的な管理の役割も担っていた。すなわち、登場しつつあったブルジョワ社会では、商業の世界における主要な悪徳、本来の意味での〈罪〉が定義されたばかりであった−−それは中世のような傲慢でも、どん欲でもなく、怠惰である。監禁施設に収容された人々に共通したカテゴリーとは、本人の責任または事故によって、富の生産、流通、あるいは蓄積に参加できないということであった。これらの人々は、この能力の欠如の度合いに応じて排除された。これは、近代の世界において、それまで存在していなかった分割線が登場することを意味するのである。このように監禁の起源とその最初の意味は、この社会的な空間の再構成に結びついたのである。
−−ミシェル・フーコー(中山元訳)『精神疾患とパーソナリティ』ちくま学芸文庫、1997年、136−137頁。
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フーコー(Michel Foucault,1926−1984)は17世紀に誕生した強制=強制囲い込み施設としての一般施療院に収容されたひとびとの罪状を「怠惰」と指摘している。それを具体的にみると「富の生産、流通、あるいは蓄積に参加できない」人々のことが該当する。
要するに経済的合理性からあぶれる存在が「怠惰」というわけです。
17世紀に資本主義の萌芽があり、そこで経済的活動に何ら影響を与えることのできない存在が「怠惰」と認定され、それは無価値(否、半価値)と断罪の対象になる。
しかし、経済活動は、つまるところは……実体としてそうじゃないとしても……「自転車操業」のように回し続けていかないと破綻するエンドレスゲームというのがひとつの特徴です。
だとすれば、これは原発とアナロジーさせる訳ではありませんけれども、人間が始めたゲームだけど、「経済的“合理性”」を追及するっていうことは、その「止め方」を未だ学んでいない怪物なのかもと、ふと今更ながら思った次第です。
これに世俗内禁欲としての勤勉が労働を準備・蓄積していくわけだけど……、いやはや人間とは恐ろしいゲームをはじめたものです。
別に僕は専門的な経済学理論は熟知していないし(社会思想史の延長線上では理論史は理解していると思うけど)、そして、それに対する脊髄反射としてのマルキシズムも結局のところ「枠内のネコパンチ」としての惰性しているので、リアルに辟易ともします。
ただしかし……、
単純ですけども、そうした儲けの合目的性から逸脱するエトヴァスにしか、問題を照射する閃光ってのは無いのかも知れませんよ。
金儲けに参加できない人間(ないしは「金儲けで負ける人間」も含め)を人間として扱うことができないのが現代の特質なのかもしれません。
※昨日「覚え書」で「論点 原発輸出」を紹介しましたが、奇しくも「原発を輸出しようとするひとびと」というのが、「経済的合目的性」のみを総ての準拠とするのは偶然ではないのかもですよ。加えると「国益」「国益」って口を酸っぱくいうわけだけれども、結局そのスローガンからは「国益」の受益・不利益当体となる「国民」のダメージはスルーしているとか……ねぇ。
⇒関連エントリ覚え書:「論点 原発輸出」、『毎日新聞』2011年11月25日(金)付。 - Essais d’herméneutique
まあ、戻りましょう。
いずれにしても、ホント、恐ろしい時代だな。ふう。
いや、お金は大事なんですけどネ……。
だけどそれを批判する論理が「枠内ネコパンチ」しかないていうのが寂しいですよね。
想像力と発想の貧困といいますか……。
そんで、これはお金に対する議論(お金至上主義とお金糞食らえという二項対立)だけじゃないと思うのですが……。
また、清貧主義的な東洋の徳論のように安易に生き方の問題に収斂させて、戦陣訓のような精神主義に傾きたくもないのですが、それでも機軸としては、どこかで生き方とかの問題に関係させていく……しかも対自的……新しい選択枝というものは必要なんだろうと思う。
働ける人は働ける人で偉いと思う。
僕もサラリーマンの真似事?やっているからその辛酸もわかる。
だけど、字義通りの「怠惰」ではなくてですよ、働きたくても働けないって多様なパターンを一慨で排斥するような認識構造はホントに不幸しか生まない。
特に高等教育をうければうけるほど、そうした認識が強くなっていく……(くどいけど字義通りの「怠惰」ではなくてですよ)働いていない人(=経済活動に参加していないひと)=無用な存在ってイエスかノーかって基準だけで判断しているとエライことになってしまうと思うんだな。
倫理学は身近なものに注目することから始まるわけですが(アリストテレス)、身近なものとは生活であり、生活とは、物、人、自分自身との関係です。
ここで大切なのは物、人、自分自身の背後には必ず生きた人間が存在するということなんだと思う。これを失念するからお金を扱う態度もヘンになっちゃうのか。
ほんと、大変な世の中だ。
⇒ ココログ版 「富の生産、流通、あるいは蓄積に参加できないということ」は果たして「怠惰」なのか?: Essais d'herméneutique