結局のところ、時代と目標が異なっても、権力の表象は相変わらず王政のイメージに取り憑かれたままでいる





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 結局のところ、時代と目標が異なっても、権力の表象は相変わらず王政のイメージに取り憑かれたままでいる。政治の思考と分析においては、人は相変わらず王の首を切り落としてはいないのだ。そこから、権力の理論において、相変わらず、法律的権利と暴力の問題に、法と違法性の、意志と自由の、そしてとりわけ、国家と主権の問題に(主権が君主の人格においてではなく集団的存在において問われている場合でも)重要さが与えられるという事態が生じるのである。権力をこれらの問題から考えるというのは、これらの問題を、我々の社会に極めて特殊な歴史的形態すなわち法律的王政から考えるということだ。しかしそれは、極めて特殊であり、結局のところは過渡的な形態にすぎない。というのも、その形態のうち多くの要素が残ってきて、現在なおも残っているとしても、様々な極めて新しい権力メカニズムが次第次第にそこに浸透しているのであり、そのような権力メカニズムは、法律的権利の表象には還元され得ないものだからである。後で見るように、これらの権力メカニズムは、少なくともそのある部分に関しては、十八世紀以降、人間の生命を、人間に生きた身体として引き受けてきたものである。そして、法律的なるものが、完全な形ではないにせよ、権力を本質的に徴収と死とに集中したものとして表象するのに役立ったことが事実だとしても、それは権力の新しい仕組み、すなわち、法律的権利によってではなく技術によって、法によってではなく標準化によって、刑罰によってではなく統制によって作動し、国家とその機関を越えてしまうレベルと形態において行使されるような型の社会に突入しているのだ。我々の下降線は、我々を法律的権利の支配からますます遠ざけているが、その後退は過去において、すでにフランス大革命と、それと共に憲法や法典の時代が近い未来に法律的権利の支配する時が来ると約束していたまさにその時代に始まっていたのだ。
     −−ミシェル・フーコー渡辺守章訳)『性の歴史I 知への意志』新潮社、1986年、115−116頁。

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とりあえず、わかりやすい敵を作ってしまいそれをたたきつぶせば解決すると夢想させたのは、19世紀後半から猛威をふるった社会変革理論ではないかと思います。

さまざまな思潮がその運動理論を補完・強化していったのがその歩みですが、戦争と暴力とよばれた20世紀(そして現在としての21世紀)を概観するならば、その単純なものの見方は何ら積極的なものを生み出すことはありませんでした。

否、それどころか、人間に塗炭の苦しみを味わわせたのがその実際の所ではないでしょうか。
※もちろん、精緻な社会構造論としてのマルクス(Karl Heinrich Marx,1818−1883)の指摘はその群鶏の鶴といいますか秀逸な部類と評価できましょうが、過激さをました後続する実践は、構造分析から遠くかけ離れていったのは事実ですが、ここではひとまず置きます。

そしてそのひとつの沸点が1968年の五月革命(フランス)であり、その見直しが現代思想の課題となるわけで、なかでもフーコーMichel Foucault,1926−1984)の権力批判論は、今となってみればスピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942−)に指摘された限界としての瑕疵が随伴しますけれども、その卓見は今なお色あせるものではありません。

古典的権力論は、生殺与奪の殺と奪にその特徴を見出します。市民を虐げるものとして過度に演出される嫌いがあったけれども、現代の権力とはそれだけではありません。人間を生かし与えることによって、市民一人ひとりが心から服従するようにディシプリンしていく……。

それを系譜学として見出したのがフーコーの指摘ですが、彼によって明らかにされたこととは何でしょうか。

さまざまあるでしょうが、悪い権力が堅塁のごとく一方に存在し、無辜なる民が一方に対峙しているわけではない……その実情を鮮やかに暴き出したことがその一つでしょう。

左翼思想に代表される急進的な社会変革思想は、体制としての権力を「悪」としてその根治として“たたきつぶす”ことに専念してきました。

たしかに体制としての権力には問題は存在しますから、その業績をすべて否定しようというわけではありません。そして現実に虐げられている人々が存在する事実をスルーしてよいというわけでもありません。

しかし、対決構造演出型のものの見方をとって向き合ってしまった場合、先に言及したとおり、結局の所、悲劇の誕生にしかならないことが多いからです。

エスorノー、イエスorノーとしてツメていくそのスタイルは、本来の改善・改革よりもあぶりだしに専念し、結局、心根としては「敵をたたきつぶしてしまえば(そして加えるならば、賛同しない人間も敵として一括)、問題はすべて解決する」というお花畑のような発想になってしまうからでしょう。

要するに反対者を取り敢えず叩き潰したら解決するというお花畑のような発想が、あらゆる善意と変革を台無しにしてしまう、この歴史に学ばない限り何をやろうとも破壊になってしまうことは明らかだと思うのですけどねぇ。

たとえば、現在、正味の所民主党政権がうまくいっているとはとても思えません。

しかし「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式に、民主党という言葉に対して「全部ぶっこわせ」っていう脊髄反射は、何ら創造的ではないだろうという噺。

いうまでもありませんが、僕は民主党支持でもありませんし、これは主語を変えてしまえば何に関しても適用できるものだとも思います。

坊主憎いのはしょうがないですよ。

その坊主が糞だったからw

しかし、袈裟切りまでやっているのであれば、我々が唾棄すべきと思っていた歴史上の血塗られた革命家と五十歩百歩。

この原初の事実はふまえておくべきでしょう……ねぇ。

くどいですが、要するに反対者を取り敢えず叩き潰したら解決するというお花畑のような発想が、あらゆる善意と変革を台無しにしてしまうということです。

破壊は一瞬……、建設は死闘ですね。

ぎゃふん。

目の前の人間とどのように関わっていくのか……ひとつひとつの勇気ある関わり、対話、実践、友情……そうした手あかにまみれて振り返ることがほとんどない概念こそ改めて「脱構築」しながらやっていくしかありませんね。









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