覚え書:「発信箱:まるでカフカ=伊藤智永(ジュネーブ支局)」、『毎日新聞』2011年12月21日(水)付。
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アラブ、欧州、北朝鮮。世界があまり激しく動くので、福島第1原発事故が早々と収束し、外国に原発輸出を再開しても、そんなものかと受け流しがちだ。私たちの生き方は変わらざるを得ないと心したのは、ほんの9カ月前のことなのに。
原発はこりごり、という感情は無理もない。それなら、反原発かと言えば、一足飛びの核兵器全廃論や非武装中立の一国平和主義と似て、自分にだけ都合のいい主張へのためらいがどうしても残る。
困るのは、権力や専門家にだまされていた、今は目覚めた正義の側にいる、という純真な気負いに出くわす時だ。とはいえ、あからさまに戸惑うのも芸がない。
そんな時は、寓話の効用である。カフカ創作のこのエピソードはどうだろう。
掟の前に門番がいる。男が入れてくれと頼むと、「今はだめだ」と断られる。
門は開いているが、中には次々に門があって、屈強の門番たちがいるという。
男は懇願を重ね、許しを待ったが、ついに聞き入れられず、死の時が訪れる。
初めてある問いが浮かび、尋ねた。
「だれもが掟を求めているのに、どうして私の他にだれも来なかったのです」
すると、門番は男の耳元で言った。
「この門はおまえ一人のためのものだったのだ。おれは行く。門を閉めるぞ」
己の失敗を門番のせいにする限り、男は何世代生まれ変わろうと門に入ることはできない。門はいつでも開いていて、入らなかったのは男自身なのだから。
男は掟を他人が作る決まり、社会の仕組みと思い込んでいた。しかし、実は男自身の生き方こそ掟に他ならない。
原発推進派は、別の掟で同じ呪縛にかかっている。原発推進も廃絶も、掟の門の前で待つ身としては同類だ。
−−「発信箱:まるでカフカ=伊藤智永(ジュネーブ支局)」、『毎日新聞』2011年12月21日(水)付。
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http://mainichi.jp/select/opinion/hasshinbako/news/20111221ddm004070132000c.html