けれども、いったん打ち倒した状態を、前よりも一層よい状態に建て直すことは、多くの者が企てたが、いずれも無駄骨折りに終わった。





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 〈私がわが国において見出す最悪のものは、不安定ということである。わが国の法律は、われわれの服装の流行と同じく、少しも一定の形をとることが出来ないでいる。ある政治の不完全を非難することはやさしい。まったく、この世のものはすべて不完全にみちているからだ。一国民にその古来の習慣に対して軽蔑をさせることも、甚だやさしいことだ。これを企てて成功しなかった者は一人もない。けれども、いったん打ち倒した状態を、前よりも一層よい状態に建て直すことは、多くの者が企てたが、いずれも無駄骨折りに終わった。〉

 ここにミシェルの理性的な保守主義と呼ばれるものが、典型的にあらわれているのを見る。一言でいうならば、革命否定論である。
 すべての革命は、歴史的必然にもとづいて敢行されるものであったであろう。けれどもその革命が、〈いったん打ち倒した状態を、前よりも一層よい状態に建て直す〉ことが、出来たかどうかの判断を誰がするのであるか。〈私のどっちつかずの判断は、大抵の場合にどちらにも等しく揺れ動くので、いっそのこと籤と賽子にきめてもらいたくなるくらいである。そして、聖書にさえも、疑わしい事柄の決定は、運命と偶然にゆだねる習慣があるという実例を見て、いまさらながら人間の無力さを考えないではいらない。〉と言い、この項の終わり近くで、ぽそりと、不気味な一言を付け加えるのである。

 〈特に政治上の事柄の中には、動揺と異議とに任せられた広大な領域がある。〉

 動揺と異議、それこそが政治の世界そのものであるが、その領域はどれくらい広いのであるか。無限に広いのであるか、有限なのであるか。
 政治家にとっては、背筋に悪寒が走るほどに怖ろしい言葉の筈である。無限に広いのであるならば、その〈動揺と異議〉のなかから、理性的かつ公正な判断と決定を見出すことは甚だ困難であろう。
 されば人間はいずこに帰るべきか。
 〈もっとも軽蔑してはならない階級は、その単純さのために最下層に立たされている人人であると思う。そして彼等の交際の仕方は、ずっと正常であると思われる。私はいつも百姓たちの行状や言葉が、われわれの哲学者たちのそれよりも、真の哲学の教えにかなっていると思う。〉
    −−堀田善衛『ミシェル 城館の人 第一部 争乱の時代』集英社文庫、2004年、333−334頁。

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無知に起因するレイシズムは例外だろうと思うけれども、自身のよって立つ党派性に盲目な発言を耳にすると……

「これは痛いなぁ」

……って思うことがしばしばある。

なんども言及している通り党派性の「自覚」は必要不可欠だと思う。

しかし、自分の立脚点を無謬とみたりして「へーい、どんなもんだい(キリッ」って開き直ってしまうのは文脈が違うのだろうよってことです。

例えば、敵対する者に対して「おわってるゼ、ボケっ」っていつ“ツッコミ”を入れただけで、「我は勝ちたり」っていう感覚自体が「おわっている」と思うわけなんだけど、どうでしょうかw
※これまた何度も言及しておりますが、無味無臭の究極の客観としての立場から「お前らアホか」って訓戒をたれようって話しではありませんよ、念のため。

現実に「おわっているゼ、ボケっ」っていう事例に事欠くことはありません。

そして「おわっている」って指摘をしていくことは必要ですよ。しかし、「おわっている」っていう指摘から、「はい、一丁終わり」ってやってしまう……、言葉を換えるならば、指摘することによって自分自身の立脚点は「間違っていないんだよね、エヘン」ってなってしまうとすれば、まあそれは不毛じゃなかろうかってことです。
※「終わっているゼ、ボケっ」っていうには「じゃあ、おまえ、対案だせよ」って恫喝もしようとは思いません。それこそナンセンス。個人的にはマニフェスト系の言説なんて糞の訳にも立たないと思っておりますがねぇ。

確かに問題を指摘することは大切なのですが、そこに熱をいれるあまりに、自分自身に対する点検とか、党派性の「ドグマ」が「無問題」なんて数式を導き出してしまうようであれば、それはそれで問題なんだってことです。

結局のところ、相手をdisることによってのみ自分自身の存在確立をなそうという「相対性」準拠が問題なんだよね。
※だからといって「絶対」準拠を推奨しようというのではなく、これはひとつもののうらとおもてですよwww

批判はしなければならない。

しかし同時に、他者に強要されたかたちでない自己点検も必要なんだけれども、その辺にわりにと鈍感になってしまう議論が多く、まさに……

「これは痛いなぁ」

……なんですワ。

プロクルステスの寝台」で寝ていると、知らない間に自分自身の肉体が毀損されてしまうということ。

だからこそ、立脚点をきちんと自覚したうえで、「へーい、どんなもんだい(キリッ」っていう言語ゲームをしていかないといけないのにねぇ。

希代のモラリストモンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne,1533−1592)の一言はその消息をよく綴っていると思いますね。


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私がわが国において見出す最悪のものは、不安定ということである。わが国の法律は、われわれの服装の流行と同じく、少しも一定の形をとることが出来ないでいる。ある政治の不完全を非難することはやさしい。まったく、この世のものはすべて不完全にみちているからだ。一国民にその古来の習慣に対して軽蔑をさせることも、甚だやさしいことだ。これを企てて成功しなかった者は一人もない。けれども、いったん打ち倒した状態を、前よりも一層よい状態に建て直すことは、多くの者が企てたが、いずれも無駄骨折りに終わった。

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まあ、不毛な議論は横に置いたとしても、自分自身がなせる実践をつづけていくほかありましぇんねぇ。







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