覚え書:「ソ連崩壊20年:第3部 激動の時代を生きて」、『毎日新聞』まとめ






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ソ連崩壊20年:第3部 激動の時代を生きて/1 レオニード・クラフチュク氏=元ウクライナ大統領

 ソビエト連邦の崩壊から25日で丸20年。激動の時代とともに生きたキーパーソンに、ソ連崩壊から今日までの評価や今後の展望を聞いた。

 ◇市民社会、まだ脆弱 民主主義移行、道遠く/あと10年以上は…−−レオニード・クラフチュク氏(77)
 −−ソ連崩壊をどう総括しますか。

 ◆ソ連は客観的事実に基づき崩壊した。いかなる邪悪な企図もなかった。経済、政治状況が悪化し、このような体制はもはや存在することができなくなった。そこで我々は、深刻な結果につながる成り行き任せで無統制な崩壊から国を守るため、独立国家共同体(CIS)を作ったのだ。

 −−ソ連とは何だったのでしょうか。

 ◆全体主義体制のもと、ウクライナは人工的な大飢饉(ききん)で約500万人が餓死し、政治抑圧で約200万人が死んだ。言語や文化など民族に関するものはすべて抑圧された。チェルノブイリ原発事故(86年)が起きた時も、人間とその健康について全く考慮されなかった。

 −−CIS諸国のこれまでの歩みは。

 ◆非人間的で管理された体制から、自由貿易や人権に基づく民主主義に移行するための条件が作られた。だが、残念ながら最小の成果しかない。各国の法哲学は権力や金持ちを擁護しても、普通の人は守ってくれない。市民社会は脆弱(ぜいじゃく)で、政権に与える影響はゼロに等しい。ノーマルな情報空間もできていない。これらの問題を解決するには、あと10年以上かかるだろう。

 −−今後のウクライナが進むべき道は。

 ◆ウクライナは地理的に欧州の中心に位置し、文化や考え方もヨーロッパの国だ。ロシア帝国に300年間、ソ連に70年間支配されたため取り残されてしまったが、欧州連合(EU)加盟を目指し、政治や経済、法などすべてを欧州スタンダードにまで高める必要がある。一方、ロシアはガス価格などあらゆる手段を使ってウクライナを勢力圏につなぎとめようとし、欧州への道を妨げている。

 −−ロシアのプーチン首相が提案した(旧ソ連諸国を再統合する)「ユーラシア同盟」構想をどう見ますか。

 ◆欧州の危機を見て思い付いたのだろうが、単なるアイデアで、実際の基盤や利益は何もない。ロシアがエネルギーや政治面で生き残る可能性を維持したいだけだ。99年に調印後、何も進んでいないロシアとベラルーシの国家連合と同じで、ユーラシア同盟に将来展望はない。【聞き手・田中洋之】=つづく

 ■人物略歴

 ウクライナ共和国共産党の要職を歴任し、90年に最高会議議長。91年12月1日、初代大統領に当選し、同8日に当時のエリツィン・ロシア大統領、シュシケビッチ・ベラルーシ最高会議議長とCIS創設で合意。94年の大統領選で敗れた。
    −−「ソ連崩壊20年:第3部 激動の時代を生きて/1 レオニード・クラフチュク氏=元ウクライナ大統領」、『毎日新聞』2011年12月19日(月)付。

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http://mainichi.jp/select/world/news/20111219ddm007030069000c.html



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ソ連崩壊20年:第3部 激動の時代を生きて/2 ゲンナジー・ブルブリス氏=元ロシア国務長官

 ◇国民に残る服従の心理−−ゲンナジー・ブルブリス氏(66)
 −−過去20年のロシア政治の変遷をどう評価していますか。

 ◆共産主義思想による支配体制や、展望のない計画分配経済というソ連全体主義帝国の特徴を捨てることができた。一方で憲法の精神は定着していないし、「管理された民主主義」のような政治的な独占主義に戻る傾向にあらがえないでいる。

 −−なぜ民主主義が定着しないのですか。

 ◆わずか20年では帝政ロシアソ連時代の帝国主義が1億4000万人の国民に植え付けた(服従の)心理を一掃できない。個人的には91〜92年という最も困難な時期に、当時のエリツィン大統領(故人)に対し、新しい政治・社会体制を築く必要があると納得させられなかったことに責任を感じている。

 −−今でもエリツィン氏の功績について評価が割れています。

 ◆ロシアには「2人の(異なる)エリツィン」がいた。87年から93年までのエリツィン氏は傑出した改革者で、93年12月にロシア憲法を発効させた。一方で94年から徐々にひずみが出てきて、寡頭資本家が台頭するような資本主義を生み出してしまった。

 −−何が転換点だったのですか。

 ◆最初は93年9〜10月に起きた憲法採択をめぐる危機と、モスクワ騒乱事件(エリツィン氏が反対派の立てこもる最高会議へ砲撃を命じた事件)だった。さらに94年12月に始まった第1次チェチェン紛争が、エリツィン氏の平和に対する姿勢や国内体制に影を落とした。

 −−後継者のプーチン前大統領は安定を取り戻しました。

 ◆ロシアが国際金融危機下でも、財政安定を維持していることを過小評価してはならない。テロに勝ったことも功績だ。

 −−今月の下院選を契機に「プーチン体制」への反発が強まっています。

 ◆今回の選挙は「偽りの民主主義」の下に置かれた政治体制の問題点をさらけ出した。(プーチン氏の当選が有力視されている)3月4日の次期大統領選の後、プーチン氏にとって最重要課題は、真の安定を導くような複合的な体制改革に取り組むことだ。早急に全政治勢力との対話に臨んで、対決的な状況を変えなければならない。対決は勝者を生まない。【聞き手・大前仁】=つづく

 ■人物略歴

 91年にソ連を構成するロシア共和国の国務長官(後に廃止)に就任。エリツィン氏の側近で、ソ連崩壊の“シナリオ”を書いたが、政敵も多く、92年末に政権を去った。その後、上下両院で議員を務めた。現在は「ロシア戦略財団」総裁。
    −−「ソ連崩壊20年:第3部 激動の時代を生きて/2 ゲンナジー・ブルブリス氏=元ロシア国務長官」『毎日新聞』2011年12月22日(木)付。

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http://mainichi.jp/select/world/news/20111222ddm007030082000c.html



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ソ連崩壊20年:第3部 激動の時代を生きて/3 アスカル・アカエフ氏=元キルギス大統領

 ◇ロシア中心に統合必要−−アスカル・アカエフ氏(67)
 −−中央アジアキルギス旧ソ連のなかで「民主主義の優等生」と呼ばれました。

 ◆私はもともと学者で、ソ連ゴルバチョフ氏が改革を始めた後の89年に政界入りした。当時のソ連人民代議員大会で経済改革委員会に所属し、市場経済化に向けたプログラムを作っており、独立後すぐに実行した。98年にキルギス独立国家共同体(CIS)で初めて世界貿易機関WTO)に加盟を果たした。下からの民主化も進め、90年代は大きな成功を収めた。00年には国際社会の支援も得て10年間の新たな改革プランを始めた。最後まで続いていれば、今日のキルギス経済は繁栄していただろう。

 −−05年の政変で祖国を追われました。

 ◆グルジアウクライナに続いてキルギスで起きた「カラー革命」は、民主主義の土壌があるところに米国が仕掛けたものだ。キルギスにとって良いことは何もなく、逆に退化を招いた。ポピュリストの素人集団が政権入りし、改革のための10カ年計画は葬り去られた。

 −−キルギスの現政権は議会制民主主義を目指しています。

 ◆議会制民主主義が機能するには、政治家が対話し、互いの意見を聞いて妥協する能力を必要とする。しかし、キルギスにそのような政治文化はなく、時期尚早だ。機が熟するには50年かかるかもしれない。

 −−ロシアのプーチン首相が提案した「ユーラシア同盟」については。

 ◆支持する。プーチン氏の構想は、経済だけでなく政治を含めた主権国家の共同体を目指すものだ。ソ連末期に浮上した、各共和国の権限を大幅強化する新連邦条約(ソ連保守派のクーデター未遂事件で実現せず)に通じるところがある。

 −−旧ソ連諸国の統合に向けた動きは。

 ◆欧州連合(EU)の危機は、旧ソ連統合が特にキルギスのような周辺国にとって必要かつ有益であることを示した。EUがなければギリシャやスペインは破産していただろう。ユーラシアの人々はロシアと何世紀にもわたる関係があり、ロシアを中心に統合するのは客観的なプロセスだ。【聞き手・田中洋之】=つづく

 ■人物略歴

 ソ連時代の90年10月にキルギス共和国最高会議で大統領に選出され、独立宣言後の91年10月に直接選挙で信任。95年と00年に再選されたが、05年の政変「チューリップ革命」でロシアに逃れ、大統領を辞任した。現在はモスクワ大学教授。
    −−「ソ連崩壊20年:第3部 激動の時代を生きて/3 アスカル・アカエフ氏=元キルギス大統領」、『毎日新聞』2011年12月24日(土)付。

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http://mainichi.jp/select/world/archive/news/2011/12/24/20111224ddm007030138000c.html



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ソ連崩壊20年:第3部 激動の時代を生きて/4 エブゲニー・ヤーシン氏=元ロシア経済相

 ◇近代化に必要な政治改革−−エブゲニー・ヤーシン氏(77)
 −−ロシア経済は20年間で様変わりしました。

 ◆ソ連崩壊直後、自由経済移行に伴う混乱はもっと軽く済むと思っていたが、実際には生活水準が軒並み15〜20%落ち込み、工業生産は40%下落。99年まで危機が続いた。しかし今では国民が食料品を求めて行列することもなくなり、市場経済が機能している。移行は成功したといえる。一方で国民が市場経済の下で、金銭の心配をするようになったのはマイナスだ。

 −−格差の広がりも指摘されています。

 ◆経済体制が変わって恩恵を受けているのは、国民の4割にとどまる。富める者が貧しい者から搾取しているという単純な構図ではないが、多くの国民は政府が(格差是正に向けて)何もしない状況に慣れてしまった。

 −−00年のプーチン政権発足後、経済状況が安定しました。

 ◆90年代は寡占資本家(オリガルヒ)が牛耳る資本主義だったが、プーチン氏は03年から政策を転換、政府主導の資本主義の形を取るようになった。その過程で(経済成長にもかかわらず)実業界の活動が低下した。08年の経済危機以降はロシアを取り巻く状況が変わっており新たな環境へ適応しなければならない。実業界の活性化も必要だ。

 −−メドベージェフ大統領は資源輸出に依存しない経済体制への移行(「近代化政策」)を訴えてきました。

 ◆政府首脳は国内の経済機構を変革しなくても、改革を実現できると思っているようだ。だが近代化には機構と(労働)文化の刷新が欠かせない。今のロシアでは「法による統治」を徹底化する措置などが取られておらず、近代化政策はまだ始まっていない。

 −−プーチン氏の大統領復帰が有力視されていますが、改革を期待できますか。

 ◆公約通りにメドベージェフ氏が首相に指名されて、彼がプーチン氏の同意を取り付ければ、近代化政策に着手するかもしれない。だが下院選後の状況が示しているように、国民の心はプーチン氏から離れてしまっている。政権はもっと早く政治改革にも取り組むべきだった。プーチン氏が権力維持の狙いで、現在の政治路線を敷いてきたのならば、過ちを犯したと言わざるを得ない。【聞き手・大前仁】(3面に「質問なるほドリ」)=つづく

 ■人物略歴

 ソ連末期に市場経済移行への「500日計画」策定に参画。94年にロシア経済相に就任。97年に経済担当の無任所相に転じ、98年に退任。現在はロシア高等経済大学院の学術顧問。
    −−「ソ連崩壊20年:第3部 激動の時代を生きて/4 エブゲニー・ヤーシン氏=元ロシア経済相」、『毎日新聞』2011年12月25日(日)付。

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http://mainichi.jp/select/world/news/20111225ddm007030110000c.html



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ソ連崩壊20年:第3部 激動の時代を生きて/5止 エブゲニー・キセリョフ氏=ロシアのテレビ局「NTV」元社長

 ◇危険はらむメディア規制−−エブゲニー・キセリョフ氏(55)
 −−ソ連言論統制に変化が始まったのはゴルバチョフ政権時代といわれます。

 ◆ゴルバチョフ氏はソ連共産党書記長に就任後、「グラスノスチ(情報公開)」を始めたが、メディアにはさまざまな規制があった。テレビはほとんど変わらなかった。真の「言論の自由」が始まったのはゴルバチョフ政権が弱体化し、メディアをコントロールできなくなった91年だった。同年末にソ連が崩壊すると、メディアに「黄金の時代」が訪れた。テレビへの規制がなくなり、国営放送以外にNTVなど独立系の民放が誕生した。新聞は読者離れと資金難で部数を減らしたが、テレビは市場経済の波に乗り一気に大衆化した。

 −−プーチン大統領時代にメディア規制が始まりました。

 ◆ロシアのエリツィン初代大統領は、不遇な時代に自分を支援したメディアの力を理解し、「民主的な政治家」はメディアを侮辱すべきではないと考えていた。しかし、旧ソ連国家保安委員会(KGB)出身のプーチン氏にとって、ジャーナリストは余計なことを伝える「三文文士」で、予防措置を取るべき存在だった。

 転換点は03〜04年で、テレビから政治トークショー与野党の討論番組が姿を消し、政府首脳の動向を伝えるニュース番組だけが残った。

 −−メディアの現状をどう見ますか。

 ◆ロシアの主要テレビは政府に厳しくコントロールされている。野党の見解はほとんど紹介されず、「存在しないもの」として扱われている。テレビ局員はジャーナリストではなく、当局のプロパガンダに奉仕している。一部の新聞や雑誌には政権批判が見られるが、部数が少なく影響力を持たない。

 −−今後の展望は。

 ◆ロシア当局は今、インターネットを「頭痛の種」と考えている。ユーザー数が増え、政権が触れてほしくないことを伝えるからだ。中国やイランのようにネット規制に乗り出す可能性もある。

 情報統制はプーチン氏の支持率が高い時にはうまくいっていた。プーチン氏の人気が低下しているなか、より厳しい締め付けに出るなら、どこにたどり着くか分からない危険な道となるだろう。【聞き手・田中洋之】=おわり

 ■人物略歴

 84年にソ連国営放送局入り。93〜01年にNTVの報道番組「イトーギ(結果)」の司会を務め、鋭い政権批判で人気に。00年に社長となったがプーチン政権の圧力で01年に退社。現在はウクライナのテレビ局で政治番組を担当する。
    −−「ソ連崩壊20年:第3部 激動の時代を生きて/5止 エブゲニー・キセリョフ氏=ロシアのテレビ局『NTV』元社長」『毎日新聞』2011年12月26日(月)付。

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http://mainichi.jp/select/world/news/20111226ddm007030161000c.html









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