寛容は弱さの表現ではなく、むしろ強さの表現なのである






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 このようにしてニ百年前の宗教寛容法の占める位置は、規定される。この法が置かれるべき枠組みは、キリスト教という国家宗教によって与えられているが、そのキリスト教は、《領土の属する人に、宗教も属する(coujus regio ejus religio)》という原則からして、ハプスブルク家の国々においては、カトリックキリスト教であった。宗教寛容法は寛容の勅令である以上、ひとつの政治的処置であって、その処置は政治的には、硬化した闘争集団の一種の懐柔策を意味したが、同時に、宗教上の異端宗派の解放と容認を目指している。このような宗教的寛容が自明なものとして前提しているのが、[既存]社会の有する支配秩序とキリスト教体制とは不可侵なものとして妥当するということである。つまり、寛容は弱さの表現ではなく、むしろ強さの表現なのである。それは、宗教上違ったように考える人々にも同等の権利を承認することではない。許容されるのは、私的で内的な生の領域に限られるか、せいぜいのところ、各宗教に固有な礼拝の円滑な実行に限られる。プロシアにおいて啓蒙君主が政治手腕を発揮したある行為を言葉で表現しようとしたとき、彼は、「ここでは誰もが自分のやり方で至福になれるのだ」と述べたがったという。この言葉に現れているのは、実は宗教的な信仰心などではなくて、むしろこのような解放をあえて実行しうる新しい国家意識の強さだったのである。今日でも国家権力は自ら宗教的寛容とブルジョワ的自由の権利を重んじなければならないと感じているのだが、そうした考えは、いまだに衰えない啓蒙のこの遺産から生じるのである。
    −−ガダマー(須田朗訳)「1782−1982年の寛容の理念」、本間謙二・須田朗訳『理論を讃えて』法政大学出版局、1993年、103−104頁。

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不寛容であることが、求心力的な結束力を築き、「強い」社会、「強い」共同体、「強い」国家などを連想させがちですが、例えば、ガダマー(Hans-Georg Gadamer,1900−2002)が指摘する通り宗教寛容法の経緯などを概観するならば、それは逆なのかも知れません。

寛容なんていうものは、マイノリティを尊重しましょうとか、権利の分配なんだろみたいな「弱者のなんとか」というイメージが濃厚ですが、それは甚だしい誤解のひとつ。

異なる考え方や異なる人間と共存していくということこそ、その社会の「強さ」の象徴であり、「成熟」なんでしょう。

そしてそれこそが「新しい」共同体「意識」の「強さ」の筈なんですが、なぜか最近、そこを理解せずに、排除と侮蔑という「古い」やり方でそれを追及しようとする連中が多く、「寛容」というものが全くもって「誤解」されてしまうことに……疲れてしまう年末です。

いや、しかし……「言語」を大切にするガダマーのこの再発見は、高く評価されてしかるべきなんだと思うのですがねぇ。







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