『汝は人間であって、決して神ではないことを知れ』という意味






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 このような古い問題と科学のあの新しい出発に直面して、哲学が今一度自らの古い機能全体を引き受け、われわれの知のすべてを統一的世界像として合一させることができるはずだなどとは、誰も考えないだろう。ところが、人間が哲学への、すなわち〈知らんとする意欲〉への自然の性行をもつということは、一般に認められている。科学〔学問〕の知と、人間文化の偉大な歴史的伝承からわれわれに押し寄せてくる、人間に関する一切の知とを、われわれの実践的意識のうちに移し変えるという課題が、相変わらず存続していないだろうか。私はここに、真正な統合という課題を、つまり、人間の自己自身との新たな自己合意を切り開くために、科学と人間の自分自身についての知とをひとつに結びつけるという課題を見るのである。われわれにはそれが必要なのだ。というのも、われわれは絶えず高まり行く自己疎外のなかで生きており、しかも、この自己疎外は、もはやとうてい、資本主義的な経済秩序の特殊性にのみ基づくものではなく、〈われわれがわれわれの文明として自分たちの回りに獲得してきたもの〉に人類が依存しているという点に基づくものだからである。こうして、人間を再び自己了解へ向かわせるという課題が、次第に緊急さを増して、立てられるのである。哲学は昔から、この自己了解という課題に貢献してきたのであって、私が解釈学と呼ぶ(理論としての、さらには、理解したり、疎遠なものや異種のものや疎遠なになってしまったものを言葉に表したりする技術の実践としての)哲学形態においてさえ貢献するのである。自己了解は、間違いなくわれわれの心を捉えているすべてのことに対してさえも、さらにはまた、われわれ自身能力に対しても自由に振るまえるよう手助けをしてくれるかもしれないのである。結局のところ、プラトンは依然正しいわけである。たしかに自分のものは制御するけれども、自分が何に仕えているのかを知ることができないような科学を脱神話化することによってのみ、知と能力の支配が自己制御されることが可能になる。「汝自身を知れ」というデルポイの要求は、「汝は人間であって、決して神ではないことを知れ」という意味であった。この要求は、科学の時代の人間にも妥当する。というのも、この要求は支配と制御の一切の幻想に対して警告を発しているからである。自己認識だけが自由を、すなわち、単にその時々の支配者によって脅かされているだけでなく、むしろ、実は、われわれが制御していると考えているすべてのものから出来する支配と依存とによって脅かされている自由を、救済することができるのである。
    −−ガダマー(本間謙二訳)「哲学に向かう人間の自然の性向について」、本間謙二・座小田豊訳『科学の時代における理性』法政大学出版局、1988年、147−148頁。

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科学の時代において哲学はどのように関わっていくべきかを論じたガダマー(Hans-Georg Gadamer,1900−2002)の文章。

科学はもともと哲学の一分野として出発した経緯から、それではもとどおり「哲学」的「思索」の傘下に戻れ……ってアナクロニスムな議論でも、単純に操作主体としての「人間」の役割を一方的に強調したものでもありません。

科学を脱神話化させるということ……これを解釈学の伝統から引き出す訳ですが、結局の所、複雑になればなるほど「支配と制御の一切の幻想」に対して「警告」を発していくというその眼差しは、今更ながら重要というほかありませんね。

しかもそれを「汝自身を知れ」というデルポイの信託から由来させるとはさすがとしかいいようがないのですが……

「『汝は人間であって、決して神ではないことを知れ』という意味」を深く受けとめるほかありません。

どのように受容していくのか、ここに鍵があるんでしょうね。

「自己認識だけが自由を、すなわち、単にその時々の支配者によって脅かされているだけでなく、むしろ、実は、われわれが制御していると考えているすべてのものから出来する支配と依存とによって脅かされている自由を、救済することができるのである」。








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