『はたしてそうか』と問いを投げかけつつ思考すること





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 思考が自らを展開するためには、すなわち未来へと向かうためには、たえず思考はその過去へと遡らねばならないようなのだ。一切他の思考に関わることなしに、みずからの力だけで歩む思考というのはありうるだろうか。一見そうした思考があってもよさそうに思われるのだが、そしてまた天才的な思考とは前人未踏の地を独力で切り開くそうした思考の典型であるようにも見えるのだが、はたしてそうだろうか。よくよくみて見れば、そうした思考も必ずやみずからの思考と共振する過去の思考との対話と対決を経て、みずからの途を歩みはじめたのである。そもそも思考がある一つの問いの前に佇むとき、すなわち何ごとかに対して「はたしてそうか」と問いを投げかけつつ思考しはじめるとき、そこにはすでにそのように問いを投げかけられ、場合によっては乗り越えられてゆく思考が出会われているはずだろう。これはすなわち、何もないところからは思考は生まれないということ、すでに何らかの思考の只中にあることからしか思考ははじまらないということにほかならない。
    −−斉藤慶典『哲学がはじまるとき −−思考は何/どこに向かうのか』ちくま新書、2007年、10−11頁。

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「先生、哲学は自らが考えることだと、いいますけど、どう考えればいいのでしょうか?」っていう質問をよく学生から受けますが、こうした質問をする際、発話者はおそらく「前人未踏の地を独力で切り開くそうした思考」のことのみを「自らが考える」ことと理解していることが多く、まずこの誤解から解かなくてはいけません。

もちろん「前人未踏の地を独力で切り開くそうした思考」なんてものに到達できればそれにこしたことはありませんが、実際のところ「そうした思考」なんて存在し得ないのも事実でありますから、結局の処、様々な考え……それは過去のものもそうですし、現在のものもそうでしょう……と「対話と対決を経て、みずからの途を歩み」はじめるしかありません。
※個人的には、「無からの創造」のような「前人未踏の地を独力で切り開くそうした思考」なんて存在しているとは思いませんけどネ

それが書物のスタイルをとることもあれば……学としてはそうなりますが……、社会的な事象もその対象となるでしょう。

それに対して「『はたしてそうか』と問いを投げかけつつ思考」する。

一切はここに尽きるわけで、その挑戦をどれだけ選択することができるのかどうかというところでしょうか。

様々な考え方やアイデアと対峙しながら、自分自身でも『はたしてそうか』とツッコミをいれつつ反芻していく。

その営為をこつこつ積み重ねていくとき、ぱっと開けてくる時っていうものはあるもんです。

ですから、短い冬休みですけれども、大学生には、古典的な名著と呼ばれるものと、がっぷり対話と対決して欲しいのですが、今は「就活」で忙しいご時世だから、難しいのですかねぇ(涙






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