「統治することのもっとも少ない政府こそ最良の政府」というモットーを、私はこころから受け入れるものである






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 「統治することのもっとも少ない政府こそ最良の政府」というモットーを、私はこころから受け入れるものである。また、それがよりすみやかに、組織的に実施されるところをぜひみたいと思っている。それは実行に移されるならば、とどのつまりは「またく統治しない政府が最良の政府」ということになり、これまた私の信念にかなうわけである。ひとびとが、このモットーを受け入れる覚悟ができたとき、彼らがもつことになるのは、まさにそのような政府であろう。
 政府とはたかだか、ひとつの方便にすぎない。ところが、たいていの政府は不便なものときまっており、またどんな政府にしろ、ときには不便をきたすことがある。常備軍の設置に対しては、これまでもさかんに有力な反対論が唱えられてきたし、それは世間の耳目を集めるだけの価値をもっているのであるが、つきつめて言えば、それとおなじ反対論が常置政府に対してもなされてもよいわけである。常備軍(アーミー)とは常置政府がふりまわす腕(アーム)にすぎない。その政府にしても、人民がみずからの意思を遂行するために選んだ方式にすぎないのだが、人民がそれを通じて行動を起こすことができないでいるうちに、ともすれば政府そのものが常備軍と同じように乱用され悪用されることになりかねない。今日のメキシコ戦争を見るがよい。これなどは、常置政府をみずからの道具として利用している比較的少数の個人のなせる業である。人民は、はじめからこんな手段に訴えることには同意しなかったであろうから。
    −−H.D.ソロー(飯田実訳)「市民の反抗」、『市民の反抗 他五篇』岩波文庫、1997年、8−9頁。

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18世紀以降の領域制国民国家体制が「国家」というシステムを形成しているという現実を受け入れるならば、どのような立場に準拠しようとも、結局は国家は「道具」にしかすぎないという出発点を忘れてはならない。

これを忘れて議論するから、

糞の役にも立たない「お国自慢」というのが始まるんだな。

道具は道具にしか過ぎないし、道具であるなら、それがうまく機能するように調整していくのが筋なのですが、道具ということを忘れて、後生大事な「宝物」のように扱ってしまう人が多い。

個々人の「自慢話」でも食傷気味なのに……それがその人に即したものであれば拍手をおくれますけど……、それが無自覚に大きな単位に「忖度」「夢想」されたもになればなるほど、胃がやられてしまいますね(涙







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