私たちは「まあ、大丈夫だろう」……そう思うのは自由ですが、その保証はどこにもない。
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「私たちが闘争の中で経験させられたことですが、教会に対する国家の圧迫は、時を経るに従って激しくなってゆきましたし、教会はだんだんと隅っこの方へ追いやられて押しこめられてしまい、告白教会の中での一致は、国家の圧力によって危機に瀕しました。そしてそういう中で、国家は、告白教会の中の個々グループ間の反目を深めてそれらの分裂をはかったのです。
最後には何もかも崩壊して廃墟となってしまったように思われました。
ある人は戦いに疲れ、またある人は意気阻喪してしまいました。そしてあらゆるものが失われてしまったような気持ちに襲われることがしばしばでした。
しかし、私たちはそんな不信仰におちいることは許されませんでした。私たちは、神様があらゆることをいつまでもその手の中に保っていて下さるのだということを、忘れるわけにはゆかなかったのです。
牧師はある時こう言いました。「教会というのは、国民大衆が万歳を唱えながらするデモンストレーションでありません。そうではなくて、教会は信仰をもった者の集まりです。誰がそれに属するのか、これを知っているものは、神様のほかにありません。神様は信ずる者の数を数えられております。信ずる者はあらゆる民の中に散らされております。しかし私たちは、その信仰者は支えられて滅びることがないということを確信していてよいのです。
おそらく教会は、今よりももっとひどい厳しい苦しみに出会うことでしょう。今はまだ教会と行動を共にしている人たち、単に政治的な理由だけから−−つまり、国家との関係うをなんとかうまく折合いをつければ危機を切り抜けられるだろうと考えて−−教会にとどまっている人たちは、やがてふるいにかけられて、教会を離れ去ってゆくことでしょう。
しかし、教会闘争がただいたずらに戦われているのではないということ、これだけはなんとしても確かなことです。そこで起こっていることは何か。それは、教会が真の教会に立ちかえったということなのです。こういう事実こそ、教会闘争のまっただ中で国民の間に福音がまったく沈黙してしまうことがないならば、やがてわがドイツ国民にとって何か大きい意味をもつものとなるでしょう」。
−−O・ブルーダー(森平太訳)『嵐の中の教会 ヒトラーと戦った教会の物語』新教出版社、1989年、117ー118頁。
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おそらくここ20年ぐらいの社会的潮流の特徴とは何かといえば、いくつかあるでしょうが、そのひとつが右傾化と排外主義への傾倒という問題なのじゃないのかと思う。
様々な立場や考え方があることは承知だけれども、出自や信条によって人は罵声を浴びせられたり、排除されたりしていいわけではない。
そして、罵声を浴びせる人々は、それを罵声とは考えていないし、ノンポリを決め込む不特定多数の中産階級なるものは、
「まあ、まあ……」
などとお茶を濁しつつ、両者から距離をとる、乃至は、許容してしまう……そうした趨勢ではないでしょうか。
もちろん、仮に問題があるのだとすれば、罵声は一方的な排除ではなく、対話というチャンネルを使って、相互理解を深め、決していくべきなのでしょうが、こうした空間に対話なんて存在しない。
罵声を上げるのは、ハナから「言葉」に対する信頼がないからだ。だから、単純なスローガンを連呼して、「大声を出したモノが勝ち」という図式を強引に作っていく。
そして、そこに眉をひそめる“自称”良識派の市民たちから、それを既成事実として認めるよう「譲歩」を迫るという構造でしょう。もちろん、“自称”良識派は当座としてはイタクもなければカユクもない。そこが罵声派のつけいるところ。
しかし、それが積み重なっていくとどういうことになってしまうのか。
そのところを考えておかなければならない時期にさしかかっていると思う。
特定の出自や信条を排除するということは、今のところ“さしあたり”あなたのそれが排除されていないものであったとしても、その安全地帯がいつ浸食されるかはわかったものではありません。
ここなんだろうと思うのですが……ねぇ。
私たちは「まあ、大丈夫だろう」
……そう思うのは自由ですが、その保証はどこにもない。
あるのはそう「夢想」すること根拠無き確信だけでしょう。