吉野作造:思想取締を非とする積極的理由








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 思想取締を非とする積極的理由
 思想取締に根拠のないことは前述の通りだ。根拠がないといふ丈けならまだ我慢も出来る。併し官憲の取締には更に之を非とすべき積極的理由もあるのである。今日の政治家がこの事に気の附かぬのは、私共の常に大に遺憾とする所である。
 何故に官憲の取締を非とするか。
 第一に官憲の取締は善悪の別を固定するからである。思想上の判定は極めてエラスチツクでなければならぬとは、文化政策上の第1原理である。今日の善も明日は悪となるかも知れぬ。其時々々の判断に拘泥しては、思想の進歩は停滞してしまう。然るに官憲の鑑賞は、其の是とする思想の信頼を国民に扶植することも覚束ないが、其の非とするものの講明は機械的に之を禁ずるので、国民の思想生活をば時の政府の判断に依て不当に拘束するの弊がある。此種の弊は形の上に現はれぬだけ、余毒の及ぼす効果は怖るべきものであることを知らねばならぬ。
 第二に官憲の取締は思想生活に於ける一番正しい態度を国民に阻むの結果を来すからである。思想生活に於て一番正しい態度は、常により正しからんと努むることだ。之が正しいと一時の判断に執着するは、既に過誤の第一歩に踏み込むものである。固より其時々に於ては、一番正しいと信ずる所に拠て行動せねばならぬことは勿論だが、之と同時に、もツとより良き立場はないものかと常に懐疑的態度を執ることが必要なのである。而して斯の態度は独り自由政策の下に於てのみ育つものである。然るに官憲の取締は正に之に相反し、取りも直さず国民の思想生活を盲目的ならしむるものに外ならない。尤も中には、どんな事を考へてもいゝと許したら、暗愚の民衆は何を考へるか知れたものでないと難ずる人があるかも知れない。之は前にも述べた如く、大衆を愚物視する封建的謬想に捉へられた考方であつて、今日の様に「人」を信じ「その良能の発達」を信ずべしとする時代に在りては、「自由」こそ各人をして「その無くてはならぬもの」を発展せしむる唯一の機会だと謂はねばならぬ。尤も教育普及の程度その他種々の社会事情に依て、多少の制限の認めねばならぬことはあらう。が、官憲的思想取締の百害あつて一利なきことだけは、何の点から観ても、極めて明白であると考える。
    −−吉野作造「思想は思想を以て戦ふべしといふ意味」、『中央公論』一九二六年五月。

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今からちょうど86年前の吉野作造(1878−1933)の指摘なのですが、官憲が思想を取り締まるということの不合理さを諄々と説いた文章です。

つまり……

1)官憲の取締は善悪の別を固定する、
2)官憲の取締は思想生活に於ける一番正しい態度を国民に阻むの結果を来す、

……という2つの理由から明確にNOを訴えたもの。

震災後、社会全体が管理体質へとシフトするなかで、その意味をもう一度考えなければならない。

結局のところ、人間を信じることができないから「取り締まろう」って発想になるのでしょうが、取り締まりは「常により正しからんと努むる」人間を阻害するものとして機能してしまう。なぜかと言えば、善悪の別を固定化したものと考えるから。

なんとなくの雰囲気で、「あれよあれよ」と事が進んでいくのが一番コワイんだよなぁ。







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