覚え書:「今週の本棚:湯川豊・評 『細部にやどる夢−私と西洋文学』=渡辺京二・著」、『毎日新聞』2012年2月12日(日)付。

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今週の本棚:湯川豊・評 『細部にやどる夢−私と西洋文学』=渡辺京二・著


 (石風社・1575円)

 ◇小説を読む行為の本質、意味を知る
 何よりもまず、ディケンズの長篇小説を語った一連の短い文章がすごい。息をのんだ。渡辺京二氏は、ディケンズの現在的意味などにことさら言及しているわけではないが、私はおのずとそこにまで思いを致すことになった。

 「通俗作家ディケンズ?」で、渡辺氏はいう。自分はある時期から、高級芸術と通俗小説の境い目がまぎらわしくなってきた、その境(さか)い目が消えた経験なしにはディケンズと出会うことはできなかったと思う、と。

 そして、通俗とは何かを考える。ある時代のある社会は、それぞれの夢を生きる自我の集合体であり、そういうひしめきあう夢がぶつかって物語ができる。そして人間の夢とは通俗なものだから、ディケンズはその通俗さにどっしりと腰をすえた。

 そういわれてみると、きまじめで、安易に求道的で、夢を生きる自我を描こうとしない日本文学を思わずにいられなくなる。

 長篇小説一つ一つの読みの深さにも目をひらかされる。『リトル・ドリット』で、世間知らずの厄介者とされているエイミーがじつはかろうじて一家を支えている、というすごい倒錯が作品のかなめであり、作家の道義観がそこにまざまざと読みとれるという透徹した指摘。

 また、この長篇にも、『荒涼館』や『我らが共通の友』にも、共通するモチーフがある、という。そして、人がこの世で本当の自分の道を歩きはじめるためには、死と再生のプロセスを経なければならないという作家の思想が、複雑きわまるストーリーの中に隠されているのを、具体的に取り出してみせる。

 余談だが、最近DVDで観(み)たクリント・イーストウッド監督の「ヒア アフター」はまさに死と再生の物語だったが、主役で自分が霊能者であるのをもてあましているマット・デイモンは、なぜか熱狂的なディケンズ好きということになっていた。この映画監督はディケンズに学んでいるのだ。彼は「メーキング」の中で、「映画はストーリーがすべて」ともいっていた。

 渡辺氏のディケンズの(というより小説一般の)読み方の特徴の一つは、いつも登場人物を大切にし、人物たちを通して小説を考えようとしていることだ。たとえば『荒涼館』に出てくる、スキムポールという奇怪な人物。『ディケンズの遺産』のM・スレイターが、これを最も個性的な悪人といっていると紹介した後、この人物を特に論じている。スキムポールは、自分は詩や音楽しかわからぬ人間だといって、いっさいの責任をのがれ、それを完全に正当化している。「それが彼にとっての自由なのだ。ポストモダン的自由は早くもディケンズによって予感されていた」というあたり、ポストモダンなるものへの視線はすごみさえある。

 渡辺氏は物語と登場人物をつねに具体的に論じる。そこからしか文学批評が始まらないと考えているからだ。これは出来合いの理論で作品を裁こうとする現代日本の文芸批判のあり方とは全く違う。しかし、小説を読むという行為の本質と意味は、渡辺氏のような姿勢の中からしか見えてこないはずだ。

 他に、ゾラ論がすばらしい。人間のエネルギーの過剰を徹底した描写でとらえた、という視点は魅力的だった。しかしそれ以上に心ひかれたのは、冒頭にブーニン『暗い並木道』にふれた文章が置かれていたことだ。この忘れられた亡命作家の、果てることを知らない男と女の物語の意味を明らかにしていて、変ないい方だけれど私はほとんど溜飲(りゅういん)が下がる思いがした。
    −−「今週の本棚:湯川豊・評 『細部にやどる夢−私と西洋文学』=渡辺京二・著」、『毎日新聞』2012年2月12日(日)付。

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