私たちを救い、力づけてくれたピエール神父の思い出





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ポワリエ 大戦中はなにをなさっていたのですか?
レヴィナス 私は非常に早い時期に捕虜になりました。一九三九年より何年か前に私は軍事通訳の試験に受かっていたので、ロシア語とドイツ語の通訳として動員されました。そしてレンヌで退却中の第一〇軍団とともに捕虜になりました。フランス国内に何カ月か拘禁されたのちドイツに移送されました。私はそこで特殊な扱いを受けることになりました。ユダヤ人として申告されたにもかかわらず、軍服のせいで強制収容所送りを免れたのです。そして他のユダヤ人とともに特殊部隊に編入されました。他のフランス人捕虜とは隔離されて森のなかで働きましたが、捕虜の保護を定めたジュネーヴ協定の条項の恩恵はどうやら受けていたようです。
ポワリエ 捕虜収容所での生活はどのようなものでしたか?
レヴィナス 私たちはドイツのハノーヴァーの近くの収容所(stalag)に送られたときに再編成されました。ユダヤ人と非ユダヤ人を分けたのです。ユダヤ人は特殊部隊に編制されました。これは私のキリスト教経験のうちできわめて重要なものの一つですが、この捕虜時代に、私は収容所にいたある聖職者の兄弟愛的な人間性を知って、深い敬意を抱くことになりました。彼はそのふるまいの一つ一つによって、私たちのなかにある人間としての威厳を回復させてくれました。その人物はピエール神父と呼ばれていました。姓はきいたことがありません。のちにフランスにおける慈愛の記録に多くのピエール神父という人物の事績が言及されました。私たちを救い、力づけてくれたのはその人のことだと私はいまでも思っています。彼のおかげで、悪夢は消え去り、言語はその失われたアクセントをふたたび見出し、堕落する以前の高貴さに戻ってきたかのように思われました。そののち、ユダヤ人部隊のなかでなにか問題が起こるたびに、私たちは収容所に行ってピエール神父に相談するようになりました。
 総じて、私たちユダヤ人の多くは、キリスト教的な慈愛に、ヒトラー主義の迫害の期間中にはじめて触れることになりました。経験的にはこれと矛盾するわけですけれども、アウシュヴィッツの死刑執行人たちは、プロテスタントであれカトリックであれ、おそらく全員が公教要理を教わってきたはずです。それなのに一方、私たちの同族を迎え入れ、援助し、しばしば命をも救ってくれたキリスト教の平信徒たち聖職者たちが市民のなかにおりました。これを私たちは決して忘れることができません。オルレアン近くのサン・ヴァンサン・ド・ポール修道院が、あらゆる策略をこらし、幾多の危険をもかえりみず、私の妻と娘を保護するために果たしてくれた役割を私はつねに記憶にとどめております。私たちはそれと同質の献身を捕虜収容所で、司祭たちの人格のうちにも認めて、ありがたく思ったのです。たとえ彼らが捕虜収容所の規則であった人種差別の撤廃を果たしえなかったにしても。
     −−エマニュエル・レヴィナス、フランソワ・ポワリエ(内田樹訳)「レヴィナスとの対話」、『暴力と聖性』国文社、1991年、106−108頁。

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閉鎖的既得権益的な倶楽部とか政党といった“肩書き”はほとんどの場合、排他的標示として機能してしまう。

要するに、「仲間」や「同志」に対する人間愛といったものの求心力が返す刀で違う人々を排除するものとして機能してしまう。

そして、この機能が人間の悲劇を加速させてきたことの論拠には暇がないほど。

だから、その意味では、立場や依拠集団を超えた人間の連帯をどうデザインするか何だろうなぁと思います。

まさに「カテゴリーや出自で先験的に判断する愚かさ」をどう乗り越えるかだ。

これはリアルな対面コミュニケーションにおいても、ネット空間においても同じことなんだろうと思う。

目の前に人間が存在するという事実をどのように了解するのか。

もちろん、「無限の他者に対して無限に謝るべきだ」などという倫理の無限応答によってこたえるべきだなどとはいいきれません。ただ、その人間を特徴づける指標だけで先験的に判断することはどこかで控える必要があるのだろうと。

ユダヤ人思想家・レヴィナス(Emmanuel L�vinas,1906−1995)は、第二次世界大戦中、ドイツ軍捕虜になりながら、励ましのドイツ人・ピエール神父の友誼を忘れていない。

この辺でしょうか……ねぇ。

さて……。
夕方、出勤前に近所の桜の木に目をやると、つぼみが大きくふくらみ始めました。
もう、春がはじまっていますね。


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