およそ人間の思考というものは、その最上のものでさえ、機械的になろうとする傾向、つまり内容を公式的な言葉で表現しようとする傾向を持っている



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四月二十二日
 およそ人間の思考というものは、その最上のものでさえ、機械的になろうとする傾向、つまり内容を公式的な言葉で表現しようとする傾向を持っている。このような公式的な表現は、たえず骨のおれる思考活動をなす代役をつとめ、少なくとも、あとから来る者に問題の扱いを楽にする効果をもつものである。このことは、とくに宗教や哲学において行われる。それゆえ、このような公式的な表現は、その時代時代におけるこれに対する反対によって呼び起こされて、それを更新してそれぞれの世代に理解しやすくしようとする動きに従って、変化しなければならない。
 これがいわゆるキリスト教の改革の目的であり、またその功績でもあった。さもなければ、それはただ一時的な現象にすぎないであろう。
    −−ヒルティ(草間平作・大和邦太郎訳)『眠られぬ夜のために 第一部』岩波文庫、1973年、134頁。

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学問で生計がたたないので一般の職場にて仕事もしているのですが、その仕事とはいわゆる業種でいえばGMS。

流通、そして対面販売の最前線にて糊口を凌ぐ毎日なのですが……はっきりいえばアカデミズムで身が成り立たないという“orz”な訳ですけども……一族郎党も抱えておりますので、“銭儲け”をしなければならないという筋書きです。

さて……。
衣類・日用雑貨から生鮮食料品まで扱う職場の夜の責任者をやっているのですが、久しぶりに土下座をさせれましたよorz

結論から言えば、商品の状態が悪かったというわけでもなく、接客トラブルでもなく、……詳しくは紹介できませんが……こっちは全く瑕疵がないのに、お客様の一方的な思いこみによって1時間近く罵倒されて、泣きそうになったよおるず。

こういう事案に遭遇するたびに……

人間って一体何なんだ((((;゚Д゚)))))))

……ってよく突きつけられます。

現実には先に言ったとおり、泣きそうにもなるし、腹も立つ。
しかし、……職をなげうつ覚悟を決め込んで……「おまえ、アホか」……って言ってしまっても、それは解決にはならないということも、同じように痛いようにわかるんです。

さて……。
言論「戦」において、「相手を否定する」ことのみに先鋭化することは、あれかorこれかという二元論ではなく、両者の持ってきたコンテンツを材料に、それを刷り上げていくという言論空間を抹殺してしまうことに傾く嫌いがある。

最後は、ルサンチマンから「おまえ、アホか」の連呼で「disり」合戦というのもよくある話し。特にネトウヨ系の議論はそれ以上にたちが悪く、根拠も資料も提示できないまま、壊れたカセットテープが同じ曲を繰り返すだけという状況で、そこには創造性は一切ない。

確かに「哲学」とはカントが『純粋理性批判』で定位したように「人間とは何か」というのは最大のテーマです。

しかし「人間とは何か」というテーマは、一端定義づけされてしまうと、その定義から逸脱する人間たちを「非人間」として扱うというジレンマも内包している。

だとすれば、「人間とは何か」というテーマは不要かといえば、それは早計だろうと思う。

「人間とは何か」を探求した先達たちの血のにじむような足跡と向き合いつつ、現実の生活の中でもそれを確認していく……この往復関係を「くだらない」と一瞥してしまうことほど怖ろしいことはない。

ひとりひとりの人間は、家族親族一族郎党から友人知人にいたるまで、所与としては何もない限り、お互いを尊重しようとする生き物だ。

何しろ、人間という「動物」だけが「生まれ落ちたまま」「ひとりで生きていくこと」ができないからだ。

だからといって過度の共同体主義ですべてOKという訳でもないし、こいつは「人間」こいつは「非人間」と屠殺場で選別する必要もない。

さまざまな知見に学びつつ、それが現実の世界においていったいどういう意味をもっているのか。

そしてその逆に、千差万別の現実世界から概念としての人間とは何なのか。

両方を諦めることなく、卵が先か、鶏かが先かという二元論を避けながら、恐らく丁寧に反芻していくほかあるまい……と。

ここには過度の道義的緊張関係も不要だし、過度の手続き論も不要だと思う。

先に言及したとおり、実際、そういうスチュエーションに遭遇すると、そりゃア「頭にはきますよ」。

しかし、それで解決するわけでもない……という忍耐は学んだような気もする。







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