兵隊のあとについて歩いて行く。ひとりでに足並みが兵隊のそれと揃う。



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 兵隊のあとについて歩いて行く。ひとりでに足並みが兵隊のそれと揃う。
 兵隊の足並みは、もとよりそれ自身無意識的なのであるが、われわれの足並みをそれと揃わすように強制する。それに逆らうにはほとんど不断の努力を要する。しかもこの努力がやがては馬鹿々々しい無駄骨折りのように思えて来る。そしてついにわれわれは、強制された足並みを、自分の本来の足並みだと思うようになる。

 われわれが自分の自我−−自分の思想、感情、もしくは本能−−だと思っている大部分は、実に飛んでもない他人の自我である。他人が無意識にもしくは意識的に、われわれの上に強制した他人の自我である。

 百合の皮をむく。むいてもむいても皮がある。ついに最後の皮をむくと百合そのものは何にもなくなる。
 われわれもまた、われわれの自我の皮を、棄脱して行かなくてはならぬ。ついにわれわれの自我そのものの何にもなくなるまで、その皮を一枚一枚棄脱して行かなくてはならぬ。このゼロに達した時、そしてそこから更に新しく出発した時に、はじめてわれわれの自我は、皮ではない実ばかりの本当の成長を遂げて行く。
    −−大杉栄「自我の棄脱」、『新潮』一九一五年五月号。

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およそ100年前にアナキスト大杉栄(1885−1923)が書いた文章が「自我の棄脱」。

評価を下す・行動する際の目安となるその人の価値に対して大きな影響を与えるのが認識になりますが、認識に被さっている所与のフィルターをどれだけ丁寧に剥がしていくのか。

もちろん、現実には完全に剥がすことは不可能だから、精確に表現すれば、認識フィルターを先験的にかぶせられていることに対してどれだけ自覚的になることができるのかどうか、というのは、極めて重大な問題だと思う。

人は生まれてから、そうしたフィルターを幾重にも後天的に駆けられてしまう。そしてそのことを先験的なものと“錯覚”して、物事に向き合っていく。

その過程で、例えば、体制にとって都合の良い“人間”へと惰化されていく……という始末。だからこそ、どういう認識構造に投げ込まれているのかどうか、というのは恐らく絶えず点検することが必要なんだろうと思う。

現代社会は、確かに、考える暇もありません。
そしてそれだけでなく、一人の人間が処理できないほど、情報が流通する環境。
さらに、本来は「これはヤヴァイ」「あり得ない」って出来事なのに、それが日常茶飯事になってしまうと、「またか」と決め込んでしまうこともある。要するに感性と知性の自己防衛という「名」の錬磨も必然する。

四六時中、考えろ……って話しではありません。

しかし、時にふれては、そう、歩いているときに、ふと、立ち止まり、少し反芻してみることは必要かも知れません。

なにしろ、人間を特定の鋳型へ流し込んでしまおう勢いが強い「世間」であるのがこの日本という社会。

気が付かないうちに「兵隊のあとについて歩いて行く。ひとりでに足並みが兵隊のそれと揃う」ってことになってしまいますからねぇ。

くわばらくわばら。

だからこそ、あえてその歩調をずらして空を見上げたりすると、春の訪れを告げる“川津桜”なんぞと出くわす訳ですよw









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