覚え書:「引用句辞典 不朽版 鹿島茂 吉本隆明さん 大思想家を規定した人生最大の事件」、『毎日新聞』2012年3月28日(水)付。





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引用句辞典 不朽版 鹿島茂
吉本隆明さん
大思想家を規定した人生最大の事件

 わたしは五年生になると早速、親たちから知合いの先生の私塾に行けといいつけられた。なぜ率直に応じたのかよくわからない。
(中略)
 わたしはあの独特ながき仲間の世界との辛い別れを体験した。別れの儀式があるわけでも、明日からてめえたちと遊ばねえよと宣言したわけでもない。ただひっそりと仲間を抜けてゆくのだ。もちろん気恥ずかしいから勉強へ行くんだなどと口に出さない。すべては暗黙のうちに了解される。昨日までの仲間たちが生き生きと遊びまわっているのを横目にみながら、少しお互いによそよそしい様子で塾へ通いはじめた。私が良きひとびとの良き世界と別れるときの、名状し難い寂しさや切なさの漢字をはじめて味わったのはこの時だった。これは原体験の原感情ともいうべきものとなって現在もわたしを規定している。
吉本隆明『背景の記憶』から「別れ」 平凡社ライブラリー

 吉本隆明さんが亡くなった。「偉大なる」という形容詞が掛け値なしに当てはまる唯一の戦後文学者であった。
 私はさきに『吉本隆明1968』という本を上梓しして、私たち団塊の世代吉本隆明をどう読んできたかを明らかにしたつもりだが、そのさい、読者から「フランス屋」の私が「吉本主義者」であったとは意外だという反応が多々あった。これに対しては、家に一冊も本がない家庭に育った人間がフランス文学なんて縁遠いものをやろうと決心するには、吉本隆明を徹底的に読みこむ必要があったのだよと答えるほかないが、それだけでは説明になっていないかもしれないので、右の文章を解説することでその代わりとしよう。
 月島で船大工の息子として生まれた吉本隆明にとって、人生最大の事件は小学五年生になった早々に起こった「良きひとびとの良き世界」との別れであった。昨日まで日が暮れるまで遊んでいたがき仲間からひっそりと抜けて塾通いを始める。それは、実家が豊かになり、三男なら工業学校にでも進学させようかという親の配慮だったのだろうが、この選択が後の大思想家を生むと同時に、「原体験の原感情というべきもの」を与えることになる。というのも、親から命じられて塾通いを始めることにより、吉本隆明は、生活以外に徹底して無関心である大衆から離脱し、最終的には世界認識の最高水準にまで到達する大知識人となるわけだが、これは彼にとってはかならずしも「良きこと」とは映らず、「名状し難い寂しさや切なさの感じ」を呼び起こすことになったからだ。
 この意味で、吉本隆明の全著作は、ひとりの人間が知識を得て、大衆から離脱し、知的営為を行うということの意味を徹底的に考えることに費やされたといっても言い過ぎではない。そして、そこから引き出された結論の一つが「もしすべての現実的条件がととのっていると仮定すれば、大衆から知識人への上昇過程は、どんな有意義性ももたない自然過程である」(『自立の思想的根拠』)ということである。
 私になりに言い換えると、自分の損得しか考えない大衆が良くも悪くもないのと同様に、生活外のことばかり考える知識人も良くも悪くもない。また前者から後者への移行も良いとか悪いとかいった倫理的な意味が付与されるべきものではなく、ある種の必然である。だから、いったん知的過程に入ってしまったものは、「大衆はバカで知識人は偉い」とも「大衆は偉くて知識人はバカだ」とも考えず、ひたすら自らの知的営為を深めて、世界とはなにか、人間とはなにかを徹底的に考えるほかはない。それしか、社会から与えられた富を社会に還元できる方法はないからだ。
 ただし、そのとき、知識人にとって、自分と家族の損得しか考えない大衆の原像を自らの思想の強度の試金石として織り込んでいくことが絶対に不可欠だ。これなくしては、どんな高尚な思想も無効だからである。
 以上が『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』『心的現象論』等の代表作に向かう前に吉本隆明が総括した思想、すなわち「大衆の原像」なのである。
 というわけで、フランス文学者となったいまも私は「日本人」が「日本語」でフランス文学やフランス文化のことを語ったり書いたりするという浮ついた営為の意味を、かつての大衆たるもう一人の自分に問いかけずには一行も書くことはできないのだ。
 若き日に吉本隆明を読んだという「原体験の原感情」が「現在でもわたしを規定している」のである。合掌。
 (かしま・しげる=仏文学者)
    −−「引用句辞典 不朽版 鹿島茂 吉本隆明さん 大思想家を規定した人生最大の事件」、『毎日新聞』2012年3月28日(水)付。

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