和辻倫理学は、近代日本国家の勃興と挫折に運命を共にした思想体系であると評すべきもの





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 和辻倫理学の評価にかえる。彼の近代主義批判は、日本の文化的伝統に即しつつ西洋近代を克服しようとする試みであったが結果的には失敗に終わったといわなくてはならない。ただ彼がおちいった誤りは、現代史における文化的ナショナリズムの問題性を尖鋭な形で提起する、という一種の反面教師的役割を果たしている。文化と政治、民族と国家を一体化してとらえようとする志向は、現代世界のナショナリズムに色こく現われている傾向である。近代日本は、このような文化的ナショナリズムが育ちやすい歴史的条件を最もよくそなえた民族社会であったため、近代西洋のインパクトに対して敏感な反応を示し、それが近代国家形成の異常な早さになって現われてきたといえよう。しかし和辻の文化的ナショナリズムの背景には、白人種の世界支配に対する「怨恨(ルサンチマン)」が存在しており、その結果彼は、宗教と文化の問題を常に外面的な政治的次元から解釈するという誤りにおちいってしまった。一言でいえば、和辻倫理学は、近代日本国家の勃興と挫折に運命を共にした思想体系であると評すべきものであろう。現代のわれわれは、否応なしにそういう近代国家の遺産を−−プラス・マイナスともに−−引きついでゆかねばならぬ運命にある。われわれに要求されているのは、彼の遺した学問的遺産をいかなる形で継承するかという課題である。
    −−湯浅泰雄『和辻哲郎 近代日本哲学の運命』ちくま学芸文庫、1995年、399頁。

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少し古い本からなのですが、湯浅氏が簡潔に和辻倫理学の限界について指摘したのが冒頭の一節。しかし、この問題は、和辻哲郎一人の問題ではなく、近代日本の思想家すべての問題なのかも知れません。

発想する土壌から完全に自由になることは不可能だから、それに対してどれだけ自覚的に引き受けることができるのかどうか。そしてその否定を脊髄反射としないように取り組むことができるかどうか。この辺なんだろうと思います。

昨今、安直な文化の回帰主義が流行の気配がありますが、回帰の対象として理想化される「近代日本国家」というものは、勃興から挫折へという歴史です。何がそこで問題となり、挫折したのかを精確に捉え、その遺産を引き受けていかない限り、その模倣は、模倣される対象よりもいびつなものとなってしまうと思われる。
 






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