覚え書:「今週の本棚:沼野充義・評 『人生と運命 全3巻』=ワシーリー・グロスマン著」、『毎日新聞』2012年05月06日(日)付。


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今週の本棚:沼野充義・評 『人生と運命 全3巻』=ワシーリー・グロスマン著
 (みすず書房・1巻=4515円、2・3巻=4725円)

 ◇「人間の自由」を現代に刻む一大叙事長篇
 心底驚くべき翻訳の出現である。二〇世紀のロシア文学の中で、最高の傑作とはあえて言わないが、もっとも力のある長篇小説の一つであることは間違いない。それが原著刊行後三〇年以上の歳月を経てようやく出版されたのだ。邦訳は全三巻、計一四〇〇ページに及ぶ。この野心的な「全体小説」の中には、われわれがいま生きる現代の世界を考えるために避けて通れない大問題が、これでもかこれでもかとばかり盛り込まれている。舞台は一九四〇年代前半、スターリン時代のソ連ヒットラーの支配するドイツだが、現代のわれわれにとって、これは過去のことでもなければ、無関係な外国のことでもない。これを読まずして、現代小説のことはおろか、現代世界のことも語れないのではないか。それほどのことを思わせる作品である。
 著者のグロスマン(一九〇五−一九六四)は、ユダヤ系のソ連作家。日本でも第二次世界大戦直後から、主に戦争経験を扱う作家として若干の作品が紹介されていた。モームが選んだ『世界100物語』(河出書房新社)にも、彼の初期短篇「ベルヂーチェフの町にて」が収録されている。ところが、才気はあるがソ連の公式路線を大幅にはみ出ることのない良心的な作家といった彼のイメージを根本的にひっくり返したのが、『万物は流転する』(勁草書房)だった。これは三〇年ものシベリア収容所生活を終えてモスクワに戻ってきた主人公の目を通じて、ロシア千年の「奴隷根性」と、その土台の上に恐るべき国家を作り上げたレーニンを根本から批判した衝撃的な作品で、作家の死後西側で出版され、ソ連の「反体制」文学として国際的に広く知られるようになった。
 しかし、じつはそのグロスマンの本当の代表作は、翻訳されないまま今日まで来てしまったこの『人生と運命』なのである。この作品の原稿は一九六一年、ソ連当局によって最高度に危険で有害な作品と見なされ、押収されてしまった。失われたと思われたグロスマンの原稿は密(ひそ)かに国外に持ち出されてスイスで一九八〇年に出版、ソ連本国でもペレストロイカ以後ようやく公刊された。
 歴史上の人物と架空の人物が交錯しながら展開する一大歴史叙事長篇であって、戦争の時代に設定されているだけに、誰しも偉大な前例としてトルストイの『戦争と平和』を思うことだろう。主要な背景となるのは、ナチス・ドイツ軍とソ連軍が死闘を繰り広げたスターリングラード攻防戦である。じつはグロスマン自身、赤軍従軍記者として独ソ戦を四年にわたって取材し、時事的な記事を書き続けていた。活字にならなかった膨大な取材ノートも編集・整理されて出版されているほどだ(ビーヴァー他編『赤軍記者グロースマン』白水社)。
 そういった取材の裏付けがあるだけに、戦時下の社会の描写はじつにリアルだが、戦闘シーンばかりが前面に打ち出されるわけではない。戦争はこの多声的な小説を構成する一つの要素に過ぎず、舞台となるのはその他、ドイツとロシアの収容所や刑務所、カザンなどの疎開地と様々で、大づかみに言って、シュトルームというユダヤ系核物理学者を中心とした科学と良心の問題、ユダヤ人の大量虐殺、そして全体主義と人間の自由といったいくつもの重く大きな主題が互いに絡み合いながら小説の全体像を形作っていく。
 しかし、決して、俯瞰(ふかん)的で抽象的な叙述に終始しているわけではない。戦時下の全体主義社会の中で、親子や夫婦、男女の愛は平時よりも強烈に燃え上がり、収容所ではナチ親衛隊少佐とソ連の古参共産主義者の手に汗握る対決が行われ、絶滅収容所に向かう列車の中で知り合った他人の子供に母性愛を感じたユダヤ人女性の医師は、自分の命が助かる可能性を捨ててその子供と運命をともにする。そして、核物理学者は母を郷里に残した結果ホロコーストの犠牲にしてしまったことに良心の呵責(かしゃく)を感じ、母を呼び寄せることに反対であった妻と不和になり、迫害のさなかにスターリンから直々(じきじき)の激励の電話を受けて安堵(あんど)したかと思えば、西側に対する抗議声明に署名を強制されて苦悩する。こんな風に、圧倒的に巨大な歴史のキャンバスのあちこちに、細密な人間模様が巧みに織り込まれているのだ。
 そして、本書から最終的に伝わってくる力強い主張は、人間にとって究極の価値が自由だということだろう。グロスマンは大胆にドイツとソ連の二つの全体主義をあえて同列に扱い、どちらも自由と人間性を破壊するものとして糾弾する。あまりにまっとうで、いまさらそんなこと、と鼻白むようなメッセージだろうか。決してそんなことはないと思う。いまでも全体主義は姿を変え、まるで目に見えない放射能のようにあちこちを徘徊(はいかい)しているではないか。
 最後に、このような巨大な作品の翻訳に長年取り組み心血を注いで完成させた訳者の功績と、出版社の決断を称(たた)えたい。優れた作品の紹介には、遅すぎるということはないのだから。(齋藤紘一訳)
    −−「今週の本棚:沼野充義・評 『人生と運命 全3巻』=ワシーリー・グロスマン著」、『毎日新聞』2012年05月06日(日)付。

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