覚え書:「今週の本棚:藤森照信・評 『股間若衆』=木下直之・著」、『毎日新聞』2012年05月27日(日)付。

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今週の本棚:藤森照信・評 『股間若衆』=木下直之・著
 (新潮社・1890円)

 ◇男性裸体彫刻「受難の歴史」を探訪する
 まず写真(右ページ)を見て頂きたい。今から104年前、明治41年の秋、上野で開かれた第2回文部省美術展覧会(文展、現日展)に出品された当時を代表する彫刻家白井雨山の<箭調(やしら)べ>である。正確にはその股間である。青年男子をモデルに制作された腹部や手先の表情は、見事なリアリズムといえるのに、青年男子の身体の核心たる股間のこの作りは何なのか。葉っぱが付いているのは分かるが、楽園追放時のアダムのようにチンポコとキンタマの前後二つを上から覆って隠すのならまだしも、これでは二つとも切って前者の切り口に葉っぱを押し当てたようにしか見えない。
 こんな奇妙な表現がなされたのは、当局の監視が絵だけでなく彫刻にも及び、摘発を恐れた彫刻家たちは、布や手拭(ぬぐ)いで隠すのが習いとなっていたからだ。もし隠さなければどうなるか。同じ第2回文展に美術学校を出たばかりの朝倉文夫はリアルに露出した<闇>を出そうとするが、事前チェックを受け、泣く泣くノコギリで切り落としている。朝倉は切り落とし、白井は切り落とした後に葉っぱを貼り付けた。
 日本にヨーロッパ美術が入ってきた時の裸体表現の問題としては、明治34年、黒田清輝の<裸体婦人像>の額の下半分に警視庁の注意で布を掛けた「腰巻き事件」がよく知られているが、股間問題は婦人だけでなく青年男子の身にも起こっていた。それも婦人以上に複雑な問題として起こり、婦人問題が解決したあとも、なんとも悩ましいまま続き、戦後になると思いもよらないような方面へと広がって……。
 これまで誰も考えたことのないこの一件を、日本の美術界で扱えるだけの学識と実績を誇るのは木下直之しかいない。19年前、名著『美術という見世物−−油絵茶屋の時代』(平凡社ちくま学芸文庫講談社学術文庫)を出した。兵庫県立近代美術館での展覧会を元にしたもので、西洋美術と初めて接したときの日本人の困惑と喜びを跡づけてくれた。今や伝説となったこの展覧会に私は幸い足を運んでいるが、西洋絵画のリアリズムに驚いた日本人美術家が、砂利を画面に、それも手前は大粒、向こうは小粒に貼り付けて、河原の遠近をリアルに表現しようと工夫していたのにはたまげた。
 本書は、第一章股間若衆、第二章新股間若衆、第三章股間漏洩集、と展開し、先に述べた婦人問題の解決の事情は第二章で扱われ、大正7年、大審院により、「(婦人の)其(その)部分は人の注視を促すに足る可(べ)き何物の描出せられたるものなき」であるならOKとなった。要するに谷間だけにして毛や割れ目を表現しなければいい、というのである。余談になるが、大正7年の大審院判決は戦後も生きながらえ、これを破ったのは篠山紀信による樋口可南子の写真集で、以後、毛まではいいが、最後の一線はダメ。
 ところが男子はそうはいかない。ノッペリした谷間だけでは婦人と間違えられるし、今さら葉っぱも布も付けたくないし。そこで日本の彫刻家はどうしたか。木下は実物探訪を始め、一つの結論を得る。大正から昭和初期のこと、「男性裸体像を好んだ北村西望が『とろける股間』としかいいようがない境地を開いた」。
 実例の写真を見ても、前後二つが一つになったようなそうでもないような、何か物体があることは分かるが形状は曖昧モッコリ状態が現出する。
 以上の事情も、あくまで美術展場内の話で、切っても、葉っぱを付けても、とろけても、決して野外に立てられることはなかった。戦前いっぱい、野外彫刻は、衣服着用が義務付けられていたのである。
 裸の男の彫刻が野外に出るようになるのは、戦後のこと。もちろん、欧米と同じようにリアルに表現しても許されるが、木下の採集した戦後の実例をチェックすると、意外にも、切ったのやとろけたのが多いことに驚かされる。
 もちろんリアルなのもあり、昭和30年、文化の日、千鳥ケ淵公園に菊池一雄の<自由の群像>が立てられたりする。
 しかし、青年男子の不幸が終わったわけではない。駅前広場や美術館や文化施設の前庭に立つ裸体彫刻は圧倒的に女性が多く、男は体育施設などに限られる。どうも、社会は男の裸を求めてはいないのだ。
 不幸はまだしも、木下すら思いもよらぬ受難が野外に出た青年男子の身に降りかかった事実が、第三章股間漏洩集に収載されている。若くて健康でリアルな青年の像に熱い視線を注ぐ人々がいたのだ。『薔薇族』に先行する雑誌『ADONIS』の読者欄に、「千鳥ヶ淵に菊池一雄作の銅像自由の群像があるそうですが写して誌上に御紹介して下さらないでしようか、こういうのを集めてみたらいかがでしよう、アングル次第でおもしろいアルバムが出来るでしよう」。
 ゴロあわせで始まったに違いない書名が、著者すら思いもよらぬ方向へとつながったところで本書は終わっている。
    −−「今週の本棚:藤森照信・評 『股間若衆』=木下直之・著」、『毎日新聞』2012年05月27日(日)付。

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股間若衆: 男の裸は芸術か
木下 直之
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