自立・自律の思索と参加を根こぎにする「ウチとソト」という曖昧さと退行、「滅私奉公」と「マイホーム主義」の併存という撤退の問題。








        • -


丸山 東洋対西洋とか、日本対外国という発想はわたしはきらいです。とくに、何かというと、日本ではこうだけれど、「外国では」こうだという言いかたがはやるのは、日本の空間的地位と文化接触の昔からかたちとに制約されている、それこそ日本的な発想ですね。日本とアメリカとか、日本とインドネシアとかいう言いかたならどこにでもあるけれど、日本と「外国」というふうに、日本以外の世界が「外国」という十ぱひとからげにされる。昔はその代表が中国だったのが、明治以後「欧米」に代わっただけ。それでも文明というより欧米列強、つまり「くに」なんです。だからおよそ、コスモポリタニズムほど、日本で昔もいまも評判のわるいことばはないし、またこれほど異質的な思想はないですね。白樺派のコスモポリタニズムなんていうこと自体チャンチャラおかしいんだなあ、わたしに言わせれば。あれくらい外国崇拝と変に日本的なものとがくっついている妙なものはないです。むしろ、道元とか親鸞とか、そういうところにコスモポリタニズムみたいなものがありますね。やはり、普遍宗教ですから、真理に直接個人が向きあう、一種の世界市民主義みたいになる。彼らは、けっして仏教をインド(天竺)という「くに」の教えとは思っていません。したがって、ヨソのものをもらってきて、ウチでどうこうするっていう発想自体がない。コスモポリタニズムよおおいに起これ、だな。
インターナショナリズムと言ってもいいけれど、これはなんといってもナショナリズムののちに出てきたものですからね。だからわたしは、「人生いたるところ青山あり」というコスモポリタニズムが出てこなきゃ、「ウチ」的ナショナリズムは日本に根づかないと思う。
鶴見 占領下に育った人たちのなかに、皮膚感覚としてそういうものを身につけた人たちが出てきてますね。
丸山 わたしもそう思います。しかし、実際はなかなかたいへんでしょうね。たとえば、若いあいだに海外旅行などして国際的なものの見かたをして、そういう意味ではいかにもコスモポリタン的な感覚を身いつけていても、私生活の面では、たとえば、結婚とかいうことになると、平気で親がかりになる。そういう人が実に単純なマイホーム主義でしょう。マイホーム主義というのは、これはね、『万葉集』とともに古いんだなあ。ちっともそれと切れてない。敷島の大和の国に人ふたり−−つまり君とぼくと−−ありとし思はば何か歎かむ、あとは知っちゃいない、可愛いかあちゃんと二人だけの閉塞的な天地をつくっちゃえば、あとはベトナムもヘッタクレもあるかって考えは、太古からあるんだなあ(笑)。われ一人じゃないんで、二人でなくちゃいけない。万葉のそういう面は、戦争中には抹殺されて、大君の辺にこそ死なめ、といった歌ばかり言われてね。実際は万葉にはこの二つの流れがあるんですよ、滅私奉公的な流れとマイホーム主義の流れと。
鶴見 そのマイホーム主義がさっきのウチとソトという分けかたの原型になるんですね。
丸山 原型になる。無限に細分化されますからね。会社で言えば、ウチの会社になるし、会社のなかでは、またウチの課になって、これは相似三角形みたいなもんで、いちばん小さいのがマイホーム。だから、滅私奉公対マイホーム主義と対立するように言うけれど、実ははじめから二つは並存しているんです。
ただ、さっきのウチ・ソトの発想にしても、これからは急速に変わっていかざるをえないでしょうね。わたしは、そういう意味で開国、開国というんです。だけど、いわゆる開国というのは、海外交流といった空間的開国ばかりで、精神的開国というのはなかなか難しいと思う。自分の精神のなかに、自分と異質的な原理を設定して、それと不断に会話する。鶴見さんなんか、ファナティックなところがある反面(笑)、それがあるので感心するんですが、対話対話っていうけれど、一般には少ないですね、自己内対話というのは。その代わりに一枚岩の精神がお互いにケンカしている。
「普遍的原理の立場 丸山眞男」、『鶴見俊輔座談 思想とは何だろうか』晶文社、1996年、27−30頁

        • -


5月になってから、鶴見俊輔さんの座談集(『鶴見俊輔座談』晶文社)を再読しております。もったいないので、1日に1編以上、読まないようにしていますが、これが痛快。

コピーには次のようにあります。

「思想は対話に始まる。会って話した50年、200人。これは、まれにみる人物辞典であり、比類ない哲学事典であり、心の手引きである。二十一世紀を生きる思想の種子がここにある」。

対談相手は、極右から極左まで!
氏自身が「人間によって立つ思想」の哲学者だから、誰とでも闊達に話をする。刊行からすでに15年近くが過ぎておりますから、古いものだと60年以上まえの対談も収録されておりますが、読んでいると新しく、その「息吹」に驚くと同時に、抜群に面白い。

さて上に引用したのは戦後日本を代表する丸山眞男との対談で、初出は1967年。

これもコメンタリー不要な内容ですが、大事なものだと思い、つい抜き書きしてみた次第です。


日本人は、すぐに「ウチとソト」と区分する。これは自室への退行であると同時に、立ち位置を特殊的地位と自認して、相関性を排除する悪弊と言えばいいでしょうか。

「ソト」を扱うにもおおざっぱな「ソト」であったり、文化・文明で論じず、短絡的に「くに」で対比してしまう。

コスモポリタニズムも、対決・対峙がないから「チャンチャラおかしい」“妙なもの”になってしまう。

「チャンチャラおかしい」のは、二律背反的社会参画アプローチだけでない。参加か撤退かっていう図式も、実は同梱されている!

しかも『万葉集』の時代から「伝統」だけに驚き仰け反ってしまう(涙

いろいろなものごとに対して、それを肯定するにしても否定するにしても、「すり合わせ」(字義通りでのいい意味でですが)は必要だと思う。

しかし現実には、その「すり合わせ」ができない精神文化だから「対話対話っていうけれど、一般には少ないですね、自己内対話というのは。その代わりに一枚岩の精神がお互いにケンカしている」んだろうなー。

こりゃア、深刻だorz






102




近代とは何だろうか (鶴見俊輔座談)
鶴見 俊輔
晶文社
売り上げランキング: 260629