「悪人ではなく、たんにstupidなだけである」から厄介なのかw





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 ケーベルが、井上はべつに悪人ではなく、たんにstupidなだけであると評したといわれる。井上は『勅語衍義』(一八九一年)を著わし、世に教育勅語の公認の註解者のように言いつたえられ、また国民道徳論の首魁のごとくにその名を挙げられる。そのことにはもちろん理由がないわけではない。とりわけ、一八九一(明治二四)年におこった、内村鑑三の不敬事件にさいして井上がはたした役割は、御用学者という世評を定着させるに十分なものであったといわなければならない。とはいえ、一九二六年には、前年に出版された『我国体と国民道徳』に「不敬」の廉で批判の火の手が上がり、やがてひろく延焼した。通常イメージされているところとはことなって、井上哲次郎はこれを機にいっさいの公職を辞している。
    −−熊野純彦「近代日本哲学の展望」、熊野純彦編『日本哲学小史 近代100年の20篇』中公新書、2009年、29−30頁。

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ここ1年、巷間をにぎわすタームが「御用学者」だと思う。ただ、最大公約数的なところは、どうやら「財政的なひもつき」から特定の立場を「有利」なものとして導く言説をしている人々のことがそうらしい。

だれがどうのとか「認定」してもはじまらないし、べつだん、興味もない。
誤っているのか正しいのか僕は「よくわからない」のが正直なところだ。

しかし、「御用学者」に限らず、得てして、問題のある人間……同時代性としては分かりづらいのですが、後世になって検討してみて結果、そういう方だと思われるひとびと……というのは、心底から「悪人」というよりも、ひょっとすると「たんにstupidなだけ」であるのかも知れないとは思う。

根っからの「悪人」というのは分かりやすいから、こちらか遠慮すれば済む話だ。しかし問題は「たんにstupidなだけ」という御仁だろう。これはなかなか分かりづらいから、予防が難しい。

ただたんに多勢の威を借りているとか、権力のまなざしであるとか、フツーに生活をしている人間を「小馬鹿」にしたような人間だけには警戒するようにはしている。











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