ぼくたちの目的は、決して白人をうちまかしたり侮辱したりすることではなく、彼らの友情と理解をかちとることでなくてはならない


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 闘争のなかで暴力を行使することは、非実際的であるばかりでなく非道徳的でもあるだろうという点を強調した。憎悪にむくいるには憎悪をもってすることは、いたずらに宇宙における悪の存在を強めるにすぎないだろう。憎悪は憎悪をうみ、暴力は暴力をうみ、頑迷はますますおおきな頑迷をうみだす。ぼくたちは憎悪の力にたいしては愛の力をもって、物質的な力にたいしては精神の力をもって応じなければならない。ぼくたちの目的は、決して白人をうちまかしたり侮辱したりすることではなく、彼らの友情と理解をかちとることでなくてはならない。
    −−M・L・キング(雪山慶正訳)「非暴力という武器」、『自由への大いなる歩み』岩波書店、1971年。

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めんどくさいことかもしれないし、それは唾棄すべきプチブル根性ゆえ、社会変革には糞の役に立たないと罵られるかも知れないけれども、やはり大事だと私は思うから少しだけ書いておく。

ガルトゥングが指摘するとおり「人間を苦しめるものは全て暴力」だと考える。そして「他人の不幸の上に自身の幸福を築く」ことを屁と思わない連中こそ、その当体であることが殆どだから、それと徹底して戦っていかなければならない。



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忍耐強い攻撃と、正義という名の兵器を毎日のように使って、その悪を攻め続けなければならない。
    −−マーチン・ルーサー・キング猿谷要訳)『黒人の進む道』サイマル出版会、1968年。

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公民権運動の父にして非暴力不服従運動の戦士・キングは、「悪の機構は、受け身で待つだけでは滅びることはない」(キング、前掲書)と指摘し、徹して攻撃していかなければならないという。

攻撃をうける悪は激しく抵抗する。

「悪は激しく抵抗する。ほとんど狂信的な反抗を示す。自ら進んでその砦を廃止することは決してない」(キング、前掲書)。

ゆえに徹してその悪を進軍ラッパを吹き鳴らすように不断に追及していかなければならない。

キングの信念とはまさに“悪を傍観するな!”“妥協するな”“攻め続けよ!”といってもよい。

しかし、同時に大切なことも指摘している。それは、悪と戦いながら、しかも戦っている相手の悪に自分は陥らないという決意だ。敵の卑劣さや憎悪、人間蔑視に、自分まで染まってしまえば、自分が、戦っている悪と同じようなものになってしまう。


「憎悪にむくいるには憎悪をもってすることは、いたずらに宇宙における悪の存在を強めるにすぎないだろう。憎悪は憎悪をうみ、暴力は暴力をうみ、頑迷はますますおおきな頑迷をうみだす」。

悪は放置してはならない。

しかし悪を追求することは、その当事者である人間の全人性を「全否定」してもよいということにすりかわってしまうことには注意深くあらねばらないし、その方法論は非暴力的手法だけでなく様々な角度から精査されたうえで励行されるべきだと考える。

権力者や社会的優位にある立場の人間から、フツーの市民にいたるまで「変な奴ら」というのは確かに存在する。

そしてそれと徹して戦うことは必要だ。

しかし、どう戦うのか−−。ここはおさえておくべきと私は思う。

だから「死ね」とか「あほ」という指摘で攻撃することを私は肯定することができない。

そもそも全人性を簡単に否定することは可能なのか。イエス釈尊にしてもそうだが、生命に突き刺さった矢(ドクサ)…そしてそれは当事者は自覚がない…を抜くことだったのではないか。全人性を否定する罵詈雑言を投げることでその作業が遂行されるようには思えない。

甘チャンかも知れませんけど。

悪に対する瞋恚や情念は否定しない。人間は理性と感情をもちあわせて人間だからだ。理性がエライ、感情が駄目という二元論でもない。悪への怒りは誰しも持ち得よう。

しかしその表象は、「おまえ、デブ」「死ね」のみに収斂するはずはないと思う。

時流に抗うつもりも、さおさすつもりもない。しかし、人間/非人間の分水嶺をたやすく越えていくことには私は革命的警戒心をもちあわせるべきだと思う。




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